結局、次の週末の夜、悠介は杏花と会った。
「あー、風が気持ちいい」
 バーから出た後、先週よりはしっかりとした足取りで、杏花は悠介の半歩前を歩いた。しかし、その言葉の語尾はかすれていた。
「仕事は、どうするんだ。これから」
「続けるよ。あっちが何も言わない限りは、ね」
 ふふ、と杏花は笑った。とても、恋人と別れた後とは思えないほど、穏やかで、そして艶の入った笑みだった。上司との不倫関係は、悠介が心配する程、危険なものでもなかったらしい。はた目には、そう見えた。
「もう、やけ酒をする必要もないな」
 悠介は、意味のない苛立ちを隠すように、酔いに任せて言った。「俺にも、用はないだろう」
「そんなこと、ない」
 杏花が振り返る。それだけの動作に、悠介は心臓が跳ね返る思いがした。
「私、悠介と会いたい」
 ぐい、とそで口を引っ張られる。「……会ってるだろう、今」悠介は戸惑いを隠せなかった。
「もっと、会いたいの」
 駄々をこねる子どものような、口調だった。
「いい加減に、してくれ」
 その言葉は、無意識に、それでいて滑るように彼の口から出た。言った後で、自分に驚くほどだった。怒鳴ったわけではないその声の調子に、杏花の肩が震える。
「……ごめん」
 悠介が謝ると、杏花はそれを否定するように、首を振った。「どうして、悠介が謝るの」彼女の声は荒く、怒り――それは確かに怒りだったのだろう、と悠介は思う――に任せたものだった。
「悠介は、いつもそう。怒っているくせに、肝心なことは何も言わない」
「そんなこと」
「今だって、そう」
「……俺に、何をさせたいんだよ」
 悠介は今度こそ、怒りを意識して言った。
「杏花が誰と別れても、俺には関係ないよ。俺が、とやかく言うことじゃない」
 言っている最中からすでに、悠介は自責の念に駆られていた。けれど、その言葉は紛れもない彼の本心であった。どこに寄りかかることのなかった、置き去りの心を自覚して、悠介はひどく苛立った。
「俺は、杏花のものじゃないんだ」
 しかしその言葉に、杏花は別の怒りを生み出したらしかった。
「悠介は、私のものになんて、一度もならなかった」
 彼は反論しようとしたが、言葉に詰まった。杏花の瞳に溜まっていた涙が、彼女の頬を伝い、濡れた跡をつけた。
「何が、関係ないのよ。手に入らないものを、捕まえたって虚しいだけじゃない。そうさせたのは、悠介でしょう!? それに比べたら、不倫の方が、よっぽど楽よ!」
「……勝手なこと、言うなよ」
 悠介は怒りの一方で、どうしようもない戸惑いを感じていた。自然と声が小さくなる。それは、今の杏花の剣幕に、大学生のころの彼女を思い出したからであった。
 あの時の彼女も、今のように顔を歪ませて、叫んだ。
「何で、怒らないの……っ」
 あの時、そう言った彼女の頬を濡らしていたのは、雨であったのか、涙であったのか。今となっては思い出せない。
 自分のような女に、何故怒らないのかと、彼女は訴えた。悠介は彼女に何も言ってやれなかったことを、後悔している。自分から求めることのない悠介に、彼女が怒っていたことを、知っていたというのに。
「いつか抱き締めてくれた時、幸せだった。でも違う。いくら抱き締めてもセックスしても、悠介がどこにいるのかわからない。……それが怖くて嫌になった」
 ――わからない。ああ、またこの言葉だ。誰が、何をわかろうというのだろう?
 悠介は自分がわからなかった。自分は、好意を寄せてくるこの女の子に、何を返せたというのだろう。なぜ応えられなかった? それは、彼女の想いがいつも先にあったからではないか?
「悠介……」
 杏花に呼ばれ、悠介は現実へと引き戻された。しかし、か細い涙声に、彼は杏花に目線を向けることが出来なかった。やがて聞こえてきたのは、走り去る彼女の足音だけであった。


 七年前――悠介が杏花と関係を持ったのは、彼が真波との付き合いを絶ってから、二週間後のことだった。あの時、杏花のマンションに軽々しく訪れたのは、お互い酒に酔っていたからだろう。そう思う度、悠介は後悔の念に駆られた。
「真波、私のところに泣きついてきたわ」
 杏花は怒っているようだったが、酔っているその表情に迫力は無かった。
「どうして、別れたの」
「そもそも付き合ってない」
「でも、寝たんでしょ」
 いっそ淡泊ともいえる調子で、その言葉を口にする杏花に、悠介はしばらく唖然としていた。
「あまり、女の子がそういうことを言うもんじゃない」
「綺麗ごとね。話をすり替えないでよ」
 酔った表情の奥底にある、悠介を睨みつけるような強い眼差しに、彼は驚いた。
「……彼女は、俺のことが好きとは言ってない」
 悠介は杏花の眼差しに負け、大分ぼかした言い方で答えた。それは一応の事実のみを捉 えた言い方であった。
「言わなくても、真波の態度でわかるわよ」
「あれは違う」
 杏花は納得出来ないと言わんばかりに、眉間にしわを寄せた。その表情に、彼女の綺麗な顔が台無しだと悠介は思った。
「相手が何も言ってくれないと、不安になるのよ。真波が、かわいそう」
「さっき言ったことと、矛盾してないか」
 杏花は返す言葉に詰まり、ふん、とそっぽを向いた。だから、と彼女は苛立たしげに言葉を紡いだ。
「あなたは、平気そうじゃない」
「そんなこと、無いさ」
 彼女の言い草に、悠介は少しばかり言葉を荒げた。杏花はその様子を、珍しそうな面持ちで見ていたが、やがて口元を笑みの形にした。
「でも、あなたは何も言わないじゃない。だから誤解されるのよ」
 誤解って、何だよ。そう悠介が言おうとした時、杏花はごろりと床に寝そべった。「眠い」おもむろに彼女は言った。
 悠介は部屋の明かりを消し、並んで横になった。気ままな彼女の行動に、毒気を抜かれたのだ。そうしていると、やがて暗い部屋に、温かく湿った雨の感覚が伝わってきた。空気だけで伝わるその感覚は、次第に耳に響くようになった。雨音は休むことなく、不規則に生まれた。
 ――雨は、嫌い……。
 杏花の声は、その空気に溶け込むようであった。思わず悠介は「え?」と聞き返した。
「霧雨っていうのかしら。あの温かくて、音もしないの。私、あれが嫌いなの」
 彼女の声に呼応するように、雨音が響き渡った。自分の耳を手で塞ぐ彼女の気配が、暗がりの中でわかった。言葉とは裏腹に、音のしない空間を求めているようだった。
 悠介は、杏花の手に自分のそれを重ねた。そして、そのまま彼女の頬を両手で包み込むようにした。何が自分をそうさせたのか、悠介にはわからなかった。しかし、彼女に触れたいという衝動を抑えられなかったのも事実だった。
「音が無いと、安心する?」
 悠介は、囁くような優しさを持って、彼女に聞いた。それは無意識の行動であった。
「わからない」彼女は答えた。「安心するけど、嫌いなのよ……」
 ああそうか、と悠介は思った。彼は目の前にいる彼女に、居場所を求める少女を見た。安心できるところなど、無いことを彼女は知っていた。知っていても尚、彼女は怖れる一方で、それを求めていた。そのことに気づくと、悠介は彼女に、真波に持ったあの愛しさを感じずにいられなかった。
 悠介のそうした感情を、杏花は見抜いていたのだろうか。二人は、どちらからともなく腕をまわし、抱き合った。全身に雨の感覚が伝わった。その感覚が、悠介をひどく欲情させた。


 杏花から電話があったのは、翌日のことだった。
「来てないですか、彼女」
 急いで来たためか、息を切らしている悠介に、バーテンは「はい、まだ……」と申し訳なさそうに答えた。悠介は居ても立ってもいられず、杏花のマンションに向かった。
 インターホンを押すが、応答は無かった。こちらから電話をかけても、杏花は出ない。悠介はドアにもたれかかって、大きくため息をついた。携帯電話を持つ手に力の入るのが、わかった。
「何やってんだよ……」
 苛立たしげに、悠介は呟いた。それは杏花に対する苛立ちと、自分に対するそれがない交ぜになった感情であった。何をしているのだろう。――彼女は、何を求めているのだろう?
 悠介は、そのことを思う度、胸の奥からぐっとある衝動が上ってくるのを感じた。それは、してはならないことだと、封印をしてきた想いだった。悠介はその感情を、自覚せずにいられなかった。けれど、感情の押すままに行動してしまいたいと思う自分に、彼は戸惑いも覚えた。
 その時、不意に思い出したことを、何と説明すればよいのだろう。ただ、小刻みに降る音もない雨の空気が、彼にその衝動を呼び起こした。悠介は走った。
 雨の中、悠介は杏花のことを想った。彼が覚えているのは、雨に濡れた彼女の姿だった。
 かつて、悠介との付き合いを止めたいと言った後、彼女は悠介のアパートを訪れた。その時、雨に濡れていた彼女は今の自分のように、もどかしい想いを抱いていたのだろうか。そう思うと、悠介は急がずにいられなかった。
「何で、怒らないの……っ」
 その時の彼女の言葉に、悠介は心の中で答えた。怒っている。そして彼女を愛しいとも思う。何より、臆病な自分に怒っている。けれどまだ、間に合うのなら。悠介は、それを逃したくないと、ただ思った。
 悠介の部屋の前で、立ちつくしている杏花を見つけた時、悠介は、彼女を抱き締めたいという衝動を抑えられなかった。想いのままに行動したあまり、ひどく乱暴な扱いになった。しかし今の悠介には、彼女を抱く腕の力を緩める余裕など無かった。
 杏花、と彼女の名を口にした。すると、それまで強張っていた彼女の身体から、力の抜けるのがわかった。背中に、杏花の腕が回される。
「遅いよ。いつも、悠介は遅い」
 杏花の声は、泣きそうになるのを堪えているそれであった。ああ本当にそうだな、と悠介は思った。いつも、自分の感情に気づくのが遅い。そうして彼女を泣かせてしまう。
 悠介は、震える杏花の肩に手をやり、そっと彼女の顔をのぞき込んだ。好きだ、と告げると、彼女の瞳に留まっていた涙がこぼれ落ちた。
 自分は、彼女を泣かせてばかりだった。けれどせめて、そうあることが、彼女の安心に繋がれば。自分のこの衝動に、彼女のよりどころがあるのなら。ただそうあることを、悠介は望んだ。
「遅い……」
 どうしてこんなに待たせるの、と杏花は言った。その口調は、駄々をこねる子どものようだった。以前には煩わしさを感じたそれを、悠介は愛しいと思った。やがて杏花が悠介に抱きついてきた時、彼は幸福な思いで彼女を受け止めた。

(完)

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