霧の雨
「
その言葉が別れの常套句となり始めたのは、悠介が十七のころだった。彼は、わからないのか、とその時妙に感慨深くなったことを覚えている。
彼は近頃、断片的な記憶をふと思い出すことがある。あれから十年が経っていた。
ぎい、と扉が錆びついた音を上げた。悠介は店内に入るなり、ある一点に向かって視線を泳がせていた。それは意識的な動作であったのかもしれないが、本人にその自覚は無かった。
「
思わず囁くような声になり、悠介は気恥ずかしくなった。悠介は、彼女の名前を呼ぶのが苦手だった。何故だかその調子に、幼い響きを感じるからだ。
カウンターにうつぶせるような姿勢で、杏花は目線だけを悠介に向けた。くす、と彼女の笑うのがわかった。悠介は、ため息をつきたくなった衝動を抑えた。彼女のこういう態度は、つくづくコケティッシュだな、と彼は思った。
「カリラを、ロックで」
バーテンにそう告げ、悠介は杏花の隣に腰を下ろした。「どうしたの、珍しいの頼んじゃって」彼女が言った。
悠介は、杏花が指先で水滴をなぞっているグラスを見た。薄暗い証明に照らされて、パッソア・ビアの鮮やかな赤色は、何だか濁って見えた。それほど酔っているわけではなさそうだが、その光景は悠介に、大学生のころ彼女と居酒屋に行ったときの事を思い起こさせた。
「そんなにお酒、強くないくせに。酔いたい理由でも、あるの」
「杏花こそ、何かあったんだろう?」
彼女は答えなかった。悠介は、仕方なしに続ける。
「何もなかったら、電話なんか寄こさないだろう」
「やっぱり、わかるんだね……」
すごいね、悠介。楽しそうに、しかし諦めたような口調で彼女は言った。
「あんな電話、無視していいのに」
何コールもしないうちに、杏花は電話を切る。何かある度に繰り返されるそれに、悠介は煩わしさの一方で、自分の果たすべき義務のようなものを感じていた。だから放っておけない。そして、杏花は彼のそんな性質を、十分に知っていた。
「また、別れたのか」
「そんなこと、ない。ちょっと喧嘩しただけよ」
会話が途切れたのを見計らって、悠介の前にグラスが置かれる。彼はそれに口をつけた。口の中が潤うのと同時に、ふ、とため息が出た。杏花がこちらを見る。悠介はそれに気づいていないふりをした。
また、別れたのか、か。その言葉だけを聞けば、まるで責めているようだな、と悠介は思った。自分にそのような権利など、あるはずがない。
「上司との不倫なんて、よく続くよな」
半ばやけになって、悠介は言った。杏花は、彼の言い草に文句を言わなかった。互いに遠慮をするような間柄でもなかったからだ。
「続けようなんて、思ってないわよ」
杏花は口元だけで笑った。
「そう思うほうが、楽に付き合えるもの。ねえ、悠介?」
「杏花、寝ないで」
今にも倒れそうな彼女の細い身体を、悠介は自分の方へ引き寄せた。うん、と頷く声がしたが、彼女の意識はすでに微睡みの中にあった。
雨足が強くなる。悠介は、杏花が濡れないように、彼女の肩を抱き込むようにして歩いた。週末の夜中に男女が寄り添うさまに、別の感慨も生まれそうであったが、悠介は早足で夜道を歩くだけであった。
――雨は、嫌い……。
不意に、悠介はその囁きを思い出した。それは大学生のころ、杏花が口にしたものであった。ああ、と悠介は心の中で唸る。彼は酔いを醒ましたくて、冷たい雨の感触に身をゆだねようと、立ち止まった。しかし、そのままでは杏花も濡れてしまうと気づき、彼はまた歩き出した。
杏花の住むマンションに着いたとき、彼女は寝息を立てていた。ほとんど背負うようにしなければ、ちゃんと運んでやれなかったほどだ。彼女をベッドまで運んだ時には、悠介は息を切らしていた。
杏花は寝入っていた。彼女がこれほどに酔うことは、あまりない。本当に何があったのだろう、と悠介は、ともすれば面倒ごとに巻き込まれそうな、その気質で考えた。
杏花が眉をひそめる。何か悪い夢でも見ているのだろうか。悠介は、そっと彼女の髪に触れた。パーマのとれかけた髪は、ずいぶん荒れていた。
悠介の腕に、ほっそりとした指が添えられる。彼がはっとして前を見ると、杏花のぼんやりとした瞳にぶつかった。彼女の指先は、そのまま悠介の首筋に向かい、しなやかな腕ごと、しがみついてきた。
――相当、まいっているな。
昔ならば当惑した状況にさえ、悠介はそんな感想を持った。
彼は杏花の髪を、くしゃりと撫でた。彼女は、ほぅ、と安心したように息をつき、また眠りに落ちた。
部屋を出る間際、悠介は名残惜しそうにベッドに視線を向けたが、そのあらぬ感情を振り切って、扉を閉めた。
杏花に欲情しないといえば、嘘になる。そのことを、悠介は自覚せずにいられなかった。だから、杏花から電話が寄こされる度に感じる煩わしさは、自分への感情でもあった。
ふぅ、と悠介はマンションに帰るなり、ため息をついた。暗がりの中、閉めたばかりの扉に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。思いのほか酔いが回っていたらしい。そしてそれ以上に、自分の思いがけない感情への苛立ちが混ざっていた。
やはり今日は杏花に会うべきではなかった、と悠介は思った。彼は、一昨日に別れたばかりの恋人の言葉を思い出していた。――わからない、か。相手からの好意に付き合っただけで、彼に特別な想いはなかった。しかし、杏花に会ったことで、その言葉は悠介の心を突くものに変わった。そういえば、彼女は少し、杏花に似ていた気もする。
悠介は、酔いに任せるままに、瞳を閉じた。
悠介が杏花と出会ったのは、大学二回生のころ――今から七年前のことである。彼女の友人の
真波との交際は――あれを交際と呼ぶのなら――、稀有なものであった。当人達に「付き合っている」という認識がなかったのに、周りからは恋人同士に見られていた。そして、当人達は特に否定をしなかった。
真波とは何度か寝たことがある。むしろそれだけであった、と今の悠介には感じられた。彼女の好意らしきもの、というより媚びる態度は目に見えたが、特にお互いで感情を伝え合うことは無かった。そんな関係を続けて幾らかも経たないうちに、終わりがやってきたのだ。
真波には想い人がいた。それは彼女より一つ年下の幼なじみで、自分よりはよほど誠実そうな男だった。真波はよく、その幼なじみの話を悠介にした。
「本当に、好きなんだな」
悠介は、その時の自分の言葉が、彼女を動揺させるとは思いも寄らなかった。彼は、異性に対してのそれではなく、幼なじみに向ける感情の代言として、その言葉を選んだつもりだった。しかし、彼女の受け止め方は違った。
幼なじみの思い出話を不意に止め、彼女はかあっと頬を紅潮させた。悠介が、真波の本心を知ったのは、それが初めてであった。彼は、当惑というよりはむしろ、ある種の愛しさを感じていた。ああ、彼のことが好きなんだな、と。それは、しみじみと感慨にふけるようでもあった。
悠介が杏花と関係を結ぶのは、それからすぐ後のことだった。
背広姿のまま寝入ったせいで、目覚めた時には背中が汗で濡れていた。もうすっかり日が昇っている。悠介はネクタイをゆるめ、大きく息を吐いた。
姿勢を崩した途端、後頭部に鈍い痛みが走る。がん、という硬い音と共に、悠介は、自分が扉の前で雑魚寝していたことを思い出した。未だに大学生のころと同じことをしている自分に、彼は少し笑いたくなった。
シャワーを浴びた後、聞き慣れた電子音が悠介の耳を打った。携帯電話の液晶画面に、見知った名前が表示されている。以前と違うのは、それがすぐに切れなかったことだ。
「杏花?」
相手が誰か知っているはずなのに、思わず聞いてしまう。しかし杏花と電話で話すのは、滅多にないことだった。
「どうしたんだ」
何も言わない彼女に、悠介は出来るだけ落ち着いた声をかけた。「杏花」再び名前を呼ぶと、うん、という小さな返答が聞こえた。
「会いたい」
やがて彼女は、そんな一言を漏らした。
「会いたいよ、悠介」
携帯電話を持つ手に、自然と力が入った。悠介は、のどの奥が乾いていくのを感じた。それは、酔った後にある独特の感覚であった。ただし、それは酒にではなく、自分でも理解し得ない感情によるものだった。
しかし悠介は、電話口に囁く程度のため息をついた。
「今日は、会わない」
どうして、と彼女は聞かなかった。悠介は迷っていたが、彼女の沈黙に甘えることにした。もしかしたら、彼女はまた、一人で酒を飲んでいるのかもしれない。酔った相手に付き合うことだけは、避けたかった。それが唯一の、悠介が自分の衝動を抑える理性であった。
「杏花、また飲んでるの?」
ううん、と声が返ってくる。その声にはまだ、すがるような響きがあったが、悠介は耐えた。
「じゃあ、今日はゆっくり寝るんだ。寝て、頭を醒ましたほうがいい。明日も仕事があるんだろう?」
わかった? と畳みかけるように言った。一応「うん」という返事を聞けたので、悠介は電話を切った。