「遅いですね」
 夕焼けが差し込む部室の中で、私こと武嶋和美(たけしまかずみ)は声をあげる。外には裏庭に咲く桜がきれいだ。さて、だいたいの人は知っていると思うが、高校で桜の時期といえば、三月末の学年末か、四月頭の年度初め。今は後者で、いわゆる新歓期だ。
 外では昇降口から出てくる新入生を誘う運動部の奴らが元気の良い声をあげていることだろう。もちろん、この時期に新入生を勧誘するのは私達――仲津原大学付属高校第二文芸部――も例外ではない。とはいえ、私たちに限っていうなら新入生の勧誘は既に済んでいる。後はだれが、いつ来るかが問題だ。
「そう焦らないの、和美ちゃん。誰もかれも入学式の次の日に目を輝かせながら飛び込んでくるわけじゃないのよ」
 去年のことを思い出したのか、本の山の向こうから軽く笑いを含んだ声が上がる。うずたかく積み上げられた本の向こうにいるのはこの部の部長であり、唯一の三年生(部員は私と先輩しかいないから、当然ではあるんだけど)風祭葵(かざまつりあおい)先輩だ。……まあ、確かに私は早すぎたかもしれませんけどね。
「それでも、明日、金曜で新歓終わりですよ。体験入部の期間も明日までですし、目に留まったなら普通もう来てるんじゃないですか。やっぱり別の場所にも貼っておいた方がいいんじゃ……」
 昨日までの議論を蒸し返そうとする私を、先輩はやんわりと、でも有無を言わさぬ声で否定する。
「何度も言ったでしょ、あれで来なきゃ意味がないのよ。うちに来る限りはね。私も、貴方も、先代も、今までずっとあれに引っかかって来てるんだから」
「そりゃそうかもしれませんけどね」
 同じやりとりは昨日もしているので、それだけ言って私は読みかけの本に目を戻す。さっきもちらっと触れたけど、この部には今、私と先輩しかいない。もっと言えば先輩の上の代も、その上の代も、かく代に一人ずつしか部員はいない。詳しい理由は省くけど、それが私たちの伝統だ。だから今年も、きっと来るであろう一人を待って、私たちはここに座っているわけだ。
 そうやって、部室にまた沈黙の時間が戻る。外の音は遠くに去り、部屋に響くのは、私と先輩がページをめくる乾いた音だけ。普段は一日で一番好きな時間だけど、今日はいつものように楽しむ気にはなれない。
 早く来い、早く来い、早く来い。
 読んでいる本の内容なんてそっちのけで頭の中は可愛い後輩(予定)の想像でパンパンに膨れ上がっている。そんな時間が過ぎ、私がまた口を開こうとした時、突然先輩が声をあげた。
「……おや、お待ちかねのお客さんが来るわよ。この分だと五分後ってところかしら」
 待ちに待った言葉、それを聞いた瞬間、私は一気に立ち上がった。今まで静けさに満ちていた室内に椅子がひっくり返る音が盛大に響き渡る。
「あらあら、そんなに急いでも時間が早まったりはしないわよ」
 たしなめる先輩の声には耳を貸さず、机の上に散らばる本の山を適当にどける。ついで、部屋の隅に隠してあるカセットコンロを引っ張り出し、お湯を沸かし始める。もっと早いのもあるけど、とりあえず今週はこれで我慢だ。最後に先輩の目の前に積まれている本の山を、先輩に断りを入れつつ他所へと動かす。入って目の前にあるのが本の山なんて、新入生が呆れちゃうわよ。
 小さなやかんが沸騰し、火を止めた私が席に戻ってくるまでにかかった時間はジャスト四分。最後にすっ飛ばしたままになってた椅子を直して、身だしなみチェック。スカートよし、襟よし、袖よし、制服に変な折り目なし。そうやってやっと一息ついて目をやると、先輩は必死に笑いをこらえていた。
 全く、私がいなかったらあのままで出迎えるつもりだったんだろうか。あ、そういえば去年の私は部室に入ると同時に本の山に向かってまくしたてたんだっけ。つまりは、そういうことなんだろう。
 文句の一つでも言ってやろうかと思案した矢先、静けさを取り戻した部屋に控えめなノックの音が響き渡る。
「はぁい、どぅぞぉ」
 先輩のゆったりとした声に釣られるように、細く、ドアが開く。途端、ノックした主よりも先に遠のいていた校内の喧騒が入りこむ。どうやら当たりのようね。


「はぁい、どぅぞぉ」
 ノックしてからすぐ、中から優しげな声が返ってきた。どんな人たちがいるんだろう、心臓が口から飛び出しそうな緊張の中、少しだけワクワクしつつ、扉を細く開ける。鍵はかかってないのに、扉は思いのほか重かった。部室棟って古そうだし、どこか歪んでいるのかな。
「えっと、張られていたビラを見てきたんですけど……第二文芸部って、ここであっていますか」
 扉を開けて入りながら、バクバクとなる心臓を抑え込むように声を絞り出して、入ったところで固まった。入った正面とてもきれいな女性の方がこっちを見て微笑んでいたから。綺麗な長い黒髪と、端正に整った顔、そこに浮かぶ柔和な微笑み。思わずため息が出そうになる。
「えぇ、ここであってるわ。とりあえずここに座って。今お茶入れるから」
 正面の人に気を取られすぎて、突然横からかけられた声の主に全く気付いていなかった。喉元まで出かかった声を押し戻し、顔を向ける。髪を短く切りそろえた女の人が笑顔を浮かべて右手の椅子を示している。
「あ、ありがとうございます。……それじゃ、失礼します」
 席に座って間もなくして、目の前におかれたティーカップに紅茶が注がれる。かぐわしい香りが鼻をくすぐり、ほっと一息つく。どうやら目的の場所はここで間違っていないようだ。
「さて、と。ようこそ第二文芸部へ。私が二年生の武嶋和美よ。で、あっちに座っているのが三年生の風祭葵先輩」
 紅茶を入れてくれた方が、武嶋さん。奥に座っている綺麗な方が風祭さん、と。
「は、はい、よろしくお願いします。えっと、自分は一年生の有賀翔真(あるがしょうま)といいます」
 挨拶が終わったところで、ようやく落ち着いて周囲を見渡す余裕ができた。見れば、右手側の壁は一面本棚で埋められている。おさめられているのはほとんどが分厚い書物。英語、だろうか。背表紙に書かれている言葉は僕には理解できない言語だった。
 逆の壁には黒板がかけられ、新歓期間を表すであろう「残り一日!!」の文字が力強いフォントで踊っている。
「ほら、興味深いのは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 一心に周囲を見渡していると、半ば呆れたような声で武嶋さんが注意する。いけない、また悪い癖が出たみたい。
「す、すいません。えっと、体験入部に来たんですけど」
 そう告げると、今まで黙っていた風祭さんが口を開いた。
「体験入部ね、もちろん歓迎よ。ところで、よければビラのどこに興味を持ったのか聞かせてもらってもいいかしら。来年の参考にしたいの」
 ……どこに、か。改めてそう言われると、なかなか答えに詰まった。僕が見たビラは別段ほかに貼られていたものと変わっていた覚えはない。なら僕は何に惹かれてここに来たのか。
「えっと、なんとなく、なんですけど。なんとなく、描かれてた絵の模様が気になって」
 そう、強いてあげるなら本を読む女性の絵の中にあった模様、それに惹かれるようにしてビラを見たんだった。
 そう告げた瞬間、風祭さんが笑い出す。
「へぇ、君もあれで惹かれたんだ。ねえ和美、この子あなたと同じで将来有望よ」
 どういうことだろう。確かにあんな細かいものに拘って部活を決めるなんて珍しいだろうけど。そう思って武嶋さんの方を見ると、さっきまでの朗らかな笑顔とは一転して、値踏みするような眼で僕の方を見つめていた。
「やっぱり貴方が今年の新入生で間違いないのね。それじゃあらためて、歓迎するわ。有賀君」
 随所に笑いを残した声で風祭さんが続ける。何故笑われたのか、いまいち釈然としない思いを抱えつつ、僕は礼を返した。


「さて、風祭先輩、いつまでも笑ってないで、この部活の説明してくださいよ。有賀君困ってますよ」
 先輩の問いに対して、釈然としない表情を続ける有賀君を見かねて、私は助け舟を出す。とにもかくにも、やっと来た新入生なのだ。ここで怒って帰られたら今までの先輩方に申し訳が立たない。しかし、言われた方の先輩はそんな心配などどこ吹く風だ。
「そうねぇ、私から説明してもいいんだけど、和美ちゃんから言ってあげてくれないかしら。私はこれを片づけるのに忙しいのよ」
 そういって、今まで読んでいた本を再びめくり始める。全く、なんて先輩だ。仮にも部長という地位にありながら、せっかく来てくれた新入生に対してこの態度である。とはいえ、先輩のめんどくさがりは今に始まったことでもない。はぁ、仕方ない。
「本当に先輩は自由人なんだから。えっと有賀君、詳しいことは私から説明させてもらうわ」
「はい、よろしくお願いします」
 うん、いい返事だ。とはいえ、後輩君、そんなキラキラした目をされても、伝える内容はほとんどないんだよ。今のところは。
「そんなに期待してもいいことないわよ。ビラに書いた通り、この部活の活動は、本を読むこと。放課後の時間、この部屋にこもってひたすら本を読む。後はたまに来るお客さんに応対する。それがこの部活の活動の全てよ」
 そう、ここは文芸部の名を冠しておきながら部誌の発行なんかは一切行っていない。部員数といい、はっきり言って存在が詐欺だ。全国の同好会、愛好会から刺客が送られてもおかしくない。
「顧問の先生なんかもいないから、本当にひたすらここで本を読んでるだけ。部誌の発行とかもないから。大丈夫だろうけど、そういうのを求めて来たら第一の方にいってね」
 そう告げても、彼に落胆した様子は見られない。そりゃそうだ。そういう普通の文芸部を求めてくるんだったら、まず間違いなくここの存在を知ることもないんだから。
「分かってるようね、よろしい。後は、ここに毎日いる必要はないけど、一応入部するんだったらできるだけ週の半分くらいは顔出してね。こっちから言うべきことはそれだけ。本当はもう少しあるけど、それは君が正式に部員になった時に伝えるわ。いいかしら」
「……はい。失礼なこと聞きますけど、本当にそれだけなんですか」
 あぁ、後輩ってかわいいなぁ。去年の私を見ているみたい。自然と顔がほころんでしまうのがわかる。だから私は彼の目を見つめて言葉を紡ぐ。
「ええ、これだけ。でも心配しないで。きっと君が想像している通り、ここは面白いから。それじゃあ、今日はこのまま帰ってもいいし、いっしょに読書するなら目の前の机は自由に使って。入ったらそこがあなたの席になるから」
 それだけ言うと、私も読みかけの本を攻略しに戻ることにする。彼はなおも何か言いたそうな顔をしていたが、諦めたのかカバンを漁りだした。
「すいません、今日は本も持ってきていませんし、帰ることにします。また明日来ます」
 そう言って、有賀君は一礼して扉に手をかけた。本の世界に入り込んでいる先輩にかわり、手を振って送り出す。そうそう、初日はそれでいいんだ。わけのわからないもやもやとした気持ちで帰ることになる。でも、きっと君はもう、ここから離れられないよ。私と、そしてきっと風祭先輩や今までの先輩方と同じように。
「さて、どこから教えていこうかしら」
 小さく呟き、本に目を戻したものの私の頭の中は彼と、今後の部活のことでいっぱいで、やっぱり本の内容は一文字も頭に入らなかった。