それから早くも三週間が経った頃、すっかりカイはステンキルファミリーの生活に馴染んでいた。
 集会に特に活動がないときは朝から店の手伝いをしている。ステンキル兄弟たちは皆学校通いだから、それを見送ってから、ステンキル夫妻と共に店の開店準備をするのである。
 父親であるトマも、母親のマルトも、都会生活に不慣れなカイには気兼ねなく親切にしてくれるし、へまをすれば居候であれど遠慮なく叱り飛ばすのが好印象だった。確かに、こういう寛大な精神の持ち主でなくてはあの集会の元締めは務まらないだろうと、カイは思う。
 集会のある週は、近所の住民やスラムの仲間たち、トマとマルトの商店仲間に宣伝ビラを配って、大々的に呼びかけを行う。そのためにあちこち走り回ったので、はるばる草原からやって来た珍客カイの存在は随分有名になった。まあ少し外に出れば、未だに毛嫌いするエレナルド人もいるのだが。
 集会の時は、ステンキル兄弟たちに混じってパフォーマンスをする。パフォーマンスとはいっても、風のヴェーダは元々目に見えにくい風の精霊と力を操るものだから、ジャスティンの炎のヴェーダや、リディアの水のヴェーダが織り成すような華やかさもなく、エーミーの持つ闇のヴェーダのような迫力もない。けれど、長年培ってきたヴェーダの技術ではカイの風のヴェーダも負けていない。事細かに精霊に指示を出して、緻密な芸当ができるのはカイの専売特許なのである。
「これがメルキトオオトカゲの風折。ほら、お前にやるよ」
 そんなわけで、今日もカイはヴェーダの一芸で子どもたちを楽しませている。
 たった二枚の紙切れで立派なトカゲの折り紙ができたのを見て、観客の少年少女たちは感嘆する。カイはそれを普通に折ったのではなく、空中で微風・強風を操作して仕上げたのだから、なかなか大したものである。
「すごいなあ。お前、手先が不器用そうな顔してるのに、色々できるじゃん」
「バカにすんな。これでも草原の民の端くれだからな。他にもやろうと思ったら、これぐらいできるんだから」
 オオトカゲの風折を受け取った茶髪の少年に向かって宣言し、羽織っていたマントをステージの床に広げてみせるカイ。その上に模造剣をかざし、風の精霊に何事かを呼びかけると、さっとその模造剣を振り上げた。
 すると、灰色の曇り空から一陣の風が舞い込み、狙ったかのようにマントだけをふわりと持ち上げる。それを見計らい、カイはひらりと浮き上がるマントに飛び乗った。
 落下を予測して小さく悲鳴を上げる子もいたが、それは杞憂に終わる。風は小さな竜巻となってさらに強まり、マントに乗っかったカイを飛翔させていく。「おとぎ話に出てくるような空飛ぶじゅうたんだ!」と、観客たちは欣喜雀躍した。
「これが、俺のとっておきの一つ! その名も――」
 と、カイが技の名乗りを上げる前に、集会場を横殴りの風が覆った。いつもより人が少ない分、風よけになるものがないので余計に強風の波が伝わってくる。カイの足元の竜巻もかき消されて、マントごとカイは転がり落ちてきた。
 またもやステージの周りは笑いに包まれる。絡まったマントを振り払い、カイは腰をさすりながら立ち上がった。
「……せっかくかっこよくやろうと思ってたんだが、今日は風の波が荒れてるから延期だ。また次に来たら見せてやるよ」
「ちゃんと練習しとけよ!」と、帰り行く子どもたちの野次に応答しつつ、カイはステージを降りる。見回せばいつの間にか、空模様は雨が降り出しそうな重い色に変わっており、露店もお客も撤収の準備を始めつつあった。
「お疲れ様〜」
 相変わらず間延びした声を掛けながら、リディアがステージの控え代わりになっている裏の路地から現れた。当番外であったジャスティンも、片付けを手伝うために一緒である。他にもステージのお手伝いが数人出てきて、雨が降り出す前に片付けようと慌しく動き始める。
 土台になっていた木箱を運びつつ、手にした荷物で顔が隠れそうになっているリディアにカイは言った。
「今日、結構人が少なかったよな。やっぱり天気が悪いせいか?」
「ううん、それもあるし、みんな学校のテストが近いからじゃないかな。明日明後日でこの辺りの学校はテストが始まるらしいし」
「テストかあ。都会にも面倒くさいものはあるんだよなあ」
「なんだ、お前のところにもテストってあるのか?」
「一応な。真面目にやったことは一度もないけど」
 ジャスティンとの会話を通して、草原の学問所での日々が否応にも思い出される。あれと同じものが世界のどこに行ってもあると想像するだけで、気がどうにかなりそうである。
 一通り倉庫に片付け終え、ステージ当番全員が解散した直後に、ぽつりと水滴が降ってきた。
「あ、もう降ってきたぞ。雨具持ってきたらよかった」
「そういう時は、これがあればダイジョーブ」
 リディアが胸を張って、くるくると頭上で手を回して見せる。すると、ぱらぱらと降り行く雨水がさっとその周りに集まり、そのまま引っ繰り返したお皿のような形を作る。水でできた傘、とでも言えばよいのだろうか。それは三人の頭上に重なり、普通の傘と寸分たがわぬ働きを見せた。
「今のすげえな。水滴だけからこれだけの水を呼び出すのって、かなり疲れるんじゃないの」
 雨水を吸収する水の傘をつつきながら、鼻歌を口ずさんでいるリディアにカイは尋ねる。
 火を起こすにしても、風を吹かせるにしても、基となる現象が無ければ基本的にヴェーダは使えない。しかもその基が数滴の雨水だったりすると、その量と同質以上のものを呼び出すにはかなりの気力と精神力が必要なのだ。
 このおとぼけ大学生が一体どれだけの修練を積んだのかとカイは想像したが、当の本人はいたって気楽な様子で答える。
「んー、そうでもないかな。うちの家系って元々精霊を引き寄せやすい体質らしいから、あんまりこういうことするのにも苦労はしないんだ」
「天性の才能ってやつか。となると、ジャスティンもそうなのか?」
「俺もマッチ一本からそれなりの火は起こせるし、似たようなことはロルフもできるな。あいつがやってた電光花火も、それの一つのはずだ」
「なるほどねえ。ちなみに、エーミーは?」
「エーミーはな……難しいな。表面的には俺らと同じことができるんだが」
 やや含みのある言い方をジャスティンはしたが、カイの関心はまたそれと別の方向に向けられていた。何やら彼は突然真剣な顔つきになって、しっかりと腕を組んでいる。
「ど、どうかしたの?」
 いきなり人相の変わったのを気にして、おずおずとリディアは声をかける。
「……いや、そういやあその家系ってのを聞いて、何か思い出しそうなんだが……。そう、俺確か、お前らに何か聞き忘れてることがあったような……」
 人差し指で額を何度もつつくカイ。その試行を十回も繰り返した頃、恐らく誰もが忘れていたであろうことを彼は思い出した。
「そうだ、あれだ! 俺、なんでお前らがヴェーダ使うのか、すっかり聞くのを忘れてた!」
 実に三週間ぶりに再生された記憶である。素っ頓狂な声を上げるカイに、「ああ」とジャスティンは手のひらを打つ。
「そういえばそうだったな。どうせだし、今教えておくか?」
「できれば頼む。そのほうが、色々とすっきりするし」
 エレナルド人でありながらヴェーダを使いこなす、ある種異質な存在であるステンキルファミリーの実態を、カイはどうしても知っておきたかった。何故、彼らはヴェーダを必要としない環境にありながら、精霊と交わる領域に身を投じたのか。
「そうなると、私のお父さんとお母さんについても話しておかないとダメかな」
 曇天をちらと見上げながら発したリディアの言葉に、カイは首を傾げた。両親であるトマとマルトについては、何度か話を聞いたはずなのだ。それなのに、改めて話すこととは一体何なのか。
「私さ」
 ぱしゃりと飛沫が立ち、水たまりに波紋が広がる。
「お義父さんとお義母さん――トマとマルトの本当の子どもじゃないんだ」
 思わず、カイは足を止めた。そうなのかとでも言いたそうに、黒い目は大きく開かれ、リディアの横顔を捉えている。淡々と彼女は言葉を紡ぐが、その表情が憂いを含んでいるのかはわからない。ジャスティンはといえば、話すリディアを見守るだけである。
「ほら、私とジャスティンとロルフの兄弟って、髪の色違うでしょ。私は赤毛だけど、二人は金髪だし」
「ああ……確かに。そういやおじさんも髪の毛は金色だし、おばさんも栗毛だよな。言われるまで気がつかなかった」
「顔は割と似てるしね。私のお父さんはトマの弟にあたるから、だから私がステンキル家のほうに似たんじゃないかな」
「要するに、俺とロルフからすればリディアはいとこに当たるってことだ。俺もこいつと同じ屋根で暮らしてだいぶ経つし、今ではあんまり実感がないけどな」
 ジャスティンが話した後、少しの間沈黙が流れる。
 ただひたすらに、しんしんと降る雨。三人ともかなりゆっくり歩いているから、この細い路地を抜けるにはまだ時間がかかりそうだとカイは思った。
「私のお母さんもそうだけど、お父さんもちょっと特別だったんだよね。ステンキル家でただ一人髪の毛が赤かったし、それに――」
「ヴェーダの才があった、ってことか?」
 思わず口が先走ってしまうカイ。話の腰を折ってしまったことに、彼が慌てて一言謝ると、リディアはにこやかな笑顔を向けた。
「そうだねえ。正確に言えば、ステンキル家に伝わってきた潜在力を自力で開花させた人間、ってところじゃないかなあ」
「潜在力の、開花?」
 カイは興味深げにそれを問う。エレナルド人である彼らに、ヴェーダの才が元々秘められていたというのだろうか。
 ジャスティンは思い出すように宙を眺めながら、それに答えた。
「叔父さんって何にでも興味を持つ人だったから、若い頃からかなり色んなことをやってたらしい。ヴェーダの存在を知ることになったのも、多分叔父さんの興味が原因だったんだろうな。偶然その存在に出会ってからは、近所のテムル人の人たちの話を聞いたり、うちの家系に伝わる古い文献を読み漁ったりして、ヴェーダを自力で身につけたらしい」
 話を聞きながら、カイにはリディアの父の努力が並大抵のものであるとは思えなかった。ヴェーダに関する全てが知覚できないエレナルド人の境地から始め、ヴェーダの獲得につなげたのだから、恐らく相当な勉強家であったに違いない。
「それに、ステンキル家って元々北方の草原付近の出身で、大昔にはテムル人と交流があったらしいから。それがどこかで交わって、ステンキル家のヴェーダの源流になったんじゃないかってお父さんは言ってた。だから、私でもお父さんの開拓した技術を使えば、ヴェーダの使い手になれるんだ」
「そうか。それでお前らの家系には、ヴェーダを使う技術が備わっているわけか」
 顎をさすりながら、カイは唸る。これでようやく、彼らの力の源が明らかになったわけだ。遺伝的なものか伝承的なものかはわからないが、とにかくステンキル家とはエレナルド人の中でヴェーダを継承する者たちのことだったのである。
 エレナルド人でありながら、テムル人の要素も持ち合わせる家族。二つの民族を知る彼らが、現代で民族排斥運動への反抗をするのもおかしくない気がした。
「そういうことだね。ずっと昔からテムル人とエレナルド人の間をうろうろしてたって考えると、ちょっと面白いよ」
 リディアはそう言って笑うが、まだもう一つの核心に触れていないことをカイは知っている。ただ、自らそれを尋ねるのははばかられたので、彼女から話を切り出すのをじっと待っているのである。
 ジャスティンがカイの意志をくみ取ったのか、リディアにそれとなく諭すような目を向ける。彼女はふっと一息ついて一拍置き、話を続けた。
「それで、私の家族の話なんだけど……。お母さんもお父さんと同じようなヴェーダの継承者で、元々は家族四人で暮らしてたんだ。お父さんと、お母さんと。弟に、私。みんな幸せだったけど――」
 黙って、カイは耳を傾けている。過去を語るリディアからは怒りも悲しみも、何の感情も感じられなかった。
 ため息をつくように、リディアは言葉を繋いだ。残酷な響きを持つ、その言葉を。
「お父さんとお母さんが殺されちゃったんだ、エレナルド人の過激派に。お前たちは国敵を扶養する害悪だ、って罵られてから」
 またも足を止め、戦慄するカイ。
「同じエレナルド人に……!?」
 耳を疑いたくなる話である。いくらリディアの両親がエレナルド人から憎まれているテムル人を支援していたからと言って、その彼らを殺すのはとんだ筋違いではないか。二つの民族が対立して喘ぐ者がいるから、彼らはそれを助けていただけなのに。
 不条理な現実を聞いて甚だ不快そうなカイ。それはジャスティンも同じらしいが、リディアの語る重い事実をじっと受け止めている。
「そう。お父さんとお母さんは、ヴェーダを使って都会に住むテムル人の人たちの支援をずっとやってたんだ。でも、それが一部の人間の反感を買って……。それで、事件の後に私はトマとマルトに引き取られたんだけど、弟はそれを嫌がって家出しちゃったんだ。もう十年近く経つんだけど、まだ帰ってこなくて」
 寂しく笑うリディア。一家離散、という言葉がカイの頭に浮かぶ。何もかもが突然引き裂かれてしまったリディアのことを思うと、その心が痛んだ。
「ステンキル家でテムル人との接触禁止令が出たのもその頃だ。俺らはずっと叔父さんと叔母さんの支援活動の手伝いをやってたから、危険に巻き込まれる可能性が高いと踏んだんだろう。それを巡って、俺もだいぶ両親と揉めた。叔父さん叔母さんがやってきたことをここで放ったらかしていいのか、ってな」
 ジャスティンの証言から、カイはそんな光景が想像できなかった。ステンキル家の寛大な両親と兄弟たちが、テムル人援助の継続と保身の均衡を争点に、そこまで対立したことがあったのだろうか。
「勿論、私たちもそれはわかってたよ。他のエレナルド人が敵視するテムル人を助けることは、自分たちも危険に晒すことになるって……。でも、すぐ近くのスラム街で苦しい思いをしている人を見たら、どうしても放っておけなかった」
 だから、とリディアは言葉に力を込める。
「私たちはお父さんとお母さん――ジェームズ・ステンキルとアリス・ステンキルの使っていたヴェーダを取り戻して、もう一度二人のやっていたことをやり直そうと思ったんだ。それで、科学からもヴェーダからも助けが得られなくて困ってる、テムル人の人たちを助けようって」
 カイはリディアの少し前に立つ格好になり、そこでようやくあることに気がついた。
 リディアは過去を後悔しているのではない。既にその目は未来を見据え、新たな境地を切り開こうとしているのだ、ということに。
 ジャスティンが少し目を細めて、その境地に至った理由を説明してくれた。
「それを決意させてくれたのは、エーミー・エーヴリーっていう一人の少女の存在だった。俺が数年前の紛争の徴兵で駆り出されて、スラムで死にかけてたのをエーミーに助けられたのがそもそものきっかけだ」
 数年前の紛争、という単語に少し動揺するカイ。しかし今は自分の話は関係のないと言い聞かせて、黙って話に集中する。
「助けて貰ったお礼としてエーミーを居候として迎えることになった時、あいつが本当に全身ぼろぼろだったってのがわかったんだよ。身体的にも、肉体的にも。みんなその様を見て、言葉を無くしたのをよく覚えてる」
 それぐらい、スラムに住むハーフやテムル人たちは虐げられていた――ということだろう。貧しい身なりをせざるを得なかった彼らを思い出し、カイは納得した。
「それを知ってから、三人兄弟がいてもたってもいられなくなってな。叔父さんと叔母さんの遺した資料を読み漁って、勝手にヴェーダを解放してみんなを助けますって言ったもんだから、親父にもお袋にも滅茶苦茶怒られる羽目になった」
 最終的には二人も協力することになったんだけどね、とリディアは笑う。
「それからだよ。反乱軍集会を開いて、エレナルド人とテムル人が共存できるようにしよう、ってみんなで志したのは」
 そこでリディアは言葉を切った。
 まだ雨は降り続いているが、少し勢いは弱まっている。
 カイはしばらく呆けたように突っ立っていたが、やがて大きく頷いて見せた。
「そうか、それだけの考えがあって、あの交流の場を切り盛りしてたわけだ。いや、恐れ入ったよ」
 そんなことないよと謙遜するリディアに、カイは首を振る。
「いやいや、十分凄いことだって。半端な根性じゃ、差別を良しとする流れに反抗する気にもならないだろうし、少なくともちょっと前の俺ならそんなことは不可能だった」
 ほんの数週間前までのことだが、草原で無難な暮らしをしていたことをカイは思い返す。
 良くも悪くも、それは阻害されることのない暮らしであった。しかし今振り返れば、果たしてそれで本当に良かったのかと疑問が残る。
「俺は生まれてからずっと草原で暮らしてきたから、エレナルド国内のテムル人が色々苦労してることも、ハーフが受け入れられずに苦しんでることも、正直学問所だけの話だと思ってた。けど、お前らとか都会の仲間たちと触れ合ううちに、こういうもんだったんだって凄い実感が湧いてきた」
 水の傘の向こう、その更に空の先にあるはずの草原を眺め、そしてカイは振り返った。
「それを知ると、俺も何かしなくちゃって思うようになってな。だからこれからも、俺にできることなら何でも手伝わせてくれ。ステンキルファミリーだけでは難しいことでも、草原の民の力を併せればできることもあるかもしれないし」
 自分で言いながらも、カイ自身いつの間にこんな決断をしていたのだろうと内心で驚いていた。人間、口にすれば思いもよらないことが出てくるものである。
 リディアもジャスティンもその提案を快く受け入れ、喜色満面になる。
「ありがとう。そう言って貰えたら、凄く心強い」
「こうやって人の輪が広がることこそが、俺らの目指す形さ。草原でも是非広めてやってくれ」
 わかったと、改めて手を取り合おうとするカイ。
 しかし、それは路地に響いた悲鳴によって妨げられる。
 びくりと体を震わせ、さっと周囲に目をやる三人。
「おい、今のは」
 何だと言いたかったが、カイの頭には既に悪い予想ができあがっていた。
 あの声は、さっき風折を渡した少年のものにそっくりだと、気がついてしまったのだから。
「方向からすると南側だったけど、まさか――」
 口元に手を当て、思案するリディア。彼女も、良くない検討を立てざるを得ないらしい。
「……急いで、うちに戻るぞ」
 それだけ言い、早足になって駆け出すジャスティン。カイとリディアは黙ってその背中に追随する。
 只ならぬ困難が、すぐそこまで差し迫っていると予感しながら。
 
 
「この辺りだな。悲鳴が聞こえたってのは」
 フライパンを片手に、川の近くの洗濯場で辺りを見回すジャスティン。なんとなく滑稽に見えないこともないが、カイはジャスティンが本気で悲鳴の主を心配していることを知っていた。
 彼のフライパンは、店の調理場で料理をするだけのものではない。カイの風の精霊を呼ぶ模造剣と同じく、炎の精霊と広く対話することを可能にする、いわば増幅器のようなものなのだ。  
 それを彼がわざわざ持ち出してきたということは、ヴェーダを使わねばならない状況が起こりうるということであろう。
「集会場には誰もいなかった。多分義姉さんの言うとおり、南の廃ビルからだと思う」
 路地の交差点で、別行動を取って捜索していたエーミーとロルフが合流した。それを聞き、ジャスティンはふうと嘆息する。いつもは穏やかで冷静さを保っている彼も、今日ばかりは険しい顔をしている。
「南の廃ビル方面ってことは、やっぱりリトルギャングの仕業か。子どもの悲鳴が聞こえたってのも、その裏づけになりそうだしな」
「またいつもの弱いものいじめだろ? あいつらも一回、根性叩き直す必要があるんじゃねえの」
 不機嫌な声色でロルフは不満を漏らす。加えて、不安げに辺りの様子を伺うリディアと、腹立たしく足を踏むエーミー。
 会話に出てきたリトルギャングとは、スラム付近を住処にする不良少年の集団だとカイは説明を聞いていたが、どうやらこの一家とは何らかの因縁があるようだ。
「一応聞いておくけど、勿論助けに行くよな」
 一刻も早くあの少年の無事を確かめたいカイは、足を踏み出しつつ尋ねる。「当たり前だろ」と答えたジャスティンに続き、ステンキル兄弟たちが追随する形になる。
 エーミーに示された通りの道を右に左に抜け、鉄骨がむき出しになった橋を渡ると、そこには確かに打ち捨てられたビルと思しき物が存在していた。
 何年も放置されていたせいか、ガラス戸の仕切りは殆ど無く、ぽっかりと黒い穴が岩壁に幾つも開いている。そのどこからかはわからないが、せせら笑うような少年たちの声が雨音に混じって微かに聞こえてきた。
「やっぱり、いるみたいだね」
 緊張した面持ちで呟くリディア。その隣で、カイは風の精霊に意思を向ける。
 風通しのよい建物にその連中がいるのなら、風を遮る存在を探すことで探知できるはず。模造剣で簡単な陣模様の線を引き、風の精霊にその跡を辿らせる。
 足元に流れる風が少しずつ砂をさらい、建物の内部と思しき地図を描く。カイもステンキル兄弟たちも、その動きとビルのほうを見比べながら、精霊の地図を注視している。
 設計の図面のような空白が幾度か続き、その後に何かが中央の部屋に集まっている図を示した。それを頼りに、眼前のビルを眺めるカイ。精霊の情報通りならば、目的の地点はここの四階である。
「あそこだ!」
 泥を蹴り、一目散にカイは駆け出した。
 照明が無い上に、雨天で日差しの無いビル内は深淵の闇に包まれていた。それでも何とか、手探りを頼りにビルの階段を一行は登っていく。
 ふと、カイの肩に何かが触れた。見上げると、エーミーが軽い身のこなしでひょいひょいと進んでいくではないか。
「お先に」
 二段飛ばしで階段を上がっていくエーミー。何故この暗闇で目が利くのかとカイはしばし黙考したが、「そうか、そういえばあいつは闇のヴェーダだ」と納得する。闇の精霊はこういう暗がりに住まうものだから、それらが彼女に道を教えているのであろう。
 ようやくビルの四階に差し掛かったころ、ないはずの明かりがちらと見えた。電灯のような定まった光ではなく、揺らめく光であることからすると、ランプか何かを室内に置いているらしい。
 知覚できたのは、光だけでない。飛び交う怒号と、物が触れ合う音もフロアに響いている。その後、廊下に面した一室から一人の少年が急いで飛び出してきた。
 危うくぶつかりそうになったが、その体を受け止めてカイは誰であったかをすぐに理解できた。
「あ、お前さっきの!」
「カイの兄貴!」
 少年は、風折を受け取った茶髪の仲間の一人だった。少し怯えた顔をしているが、幸い怪我はどこにもないらしい。
「良かった! オレ以外にも捕まった奴がいるから、助けてやって! エーミーの姉ちゃんだけじゃ……」
「わかってるって! 後は任せとけ!」
 一行とすれ違いに、何人かの少年少女がフロアから逃げ出すことができた。が、肝心のあの少年がまだ解放されていない。
 手の行き届いた内装が施された、居住空間らしい部屋を幾つか通り抜け、辿り着いた奥の一室。それはマフィアの親玉が居座るような、豪奢かつ広大な部屋であった。
 中では既に相当な乱闘があったらしく、床や壁にはのびたリトルギャングたちがへばりついていた。いずれも例外なくパンクロッカーやチンピラを模倣した、粗暴さをアピールするような服装で、顔や体には無残に殴打された痕がある。
 残るはリーダー格らしい少年とその取り巻き、手負いのエーミーに、奥に押し込められた風折の少年。
「おい、助けに来たぞ!」
 カイが叫び、少年はぱっと顔を輝かせるが、それはすぐに展開するリトルギャングたちによって覆い隠された。
「見つけたぞ悪ガキ。毎度毎度、面倒なことをやってくれるな。目的は知らないが、さっさとその子を放せ」
 ポケットに手を突っ込んだジャスティンが、柄にも無い凄みの利かせた声で威嚇する。しかしリーダーの少年は嘲笑するだけで、取り合おうともしない。
「へっ、ようやくステンキル家の兄貴がお出ましか。こんなチビ一人のために、ご苦労様だよなあ」
 左の手でピアスをいじくり回し、右の手で煌く刃を回転させながら、少年は吐き捨てるように言った。
「――黒ずみ(・・・)の味方をするようなクソ共と馴れ合いやがって。おまけに、自分たちも進んで黒ずみに奉仕するときたもんだ。頭狂ってんのか、あ?」
 リディアが堪りかねて足を踏み出そうとするが、ジャスティンがそれを制した。少年の怒りは留まるところを知らず、次から次へと繰り出される。
「気色の悪いことを延々と続けやがって。こっちも毎回毎回、お前らの顔を見るだけで腹が立つんだよ!」
 その足は、転がったゴミ箱を蹴飛ばす。がらん、がらんという金属音。
 テムル人を著しく蔑視する少年に、カイはぎりと歯をかみ締めるが、同時に理性が自重しろと諭した。怒りに任せて解決するのは、先人の愚行と同じではないか。
 対して、憎悪の炎を燃え上がらせるエーミー。至る所に傷を負い、肩膝をついてなお、その目は刺すような鋭さを失っていない。それどころか、今すぐにでも眼前の獲物を仕留めんとする殺気すら感じさせた。
「んだよ、いつも人のすることにケチつけやがって! 俺らがテムル人と仲良くなって、お前にどう悪いって言うんだよ!」
 うんざりした様子で叫ぶロルフ。それが引き金になって、少年は逆上する。
「悪いだと? 悪い以前に、黒ずみの存在自体が間違ってるだろ! 平気で俺たちエレナルド人の領分を侵しやがって、何様のつもりなんだ!」
 そうだ、そうだと口々に叫ぶ取り巻き。カイは今すぐにでも反抗したかったが、彼自身の良心がそれをすることを許さなかった。
「黒ずみも目障りだが、それを支援するとかいうカスもうざくてしょうがねえ。だから、あいつらを人質にしてお前らをおびき出した」
 つかつかと少年は歩み始め、右手のナイフを高々と掲げる。その場に居合わせた者たちの緊張が、一斉に高まる。
「エーミー、お前とはスラム時代から長い付き合いだったよなあ。顔を見るだけでお互い吐きそうになったけど、それも今日で終わりだ」
 喜びな、と歪んだ少年の笑顔。
 その腕が振り下ろされるよりも早く、ジャスティンが床を蹴る。ポケットに忍ばせていたライターを着火し、火の気配を作り出すと、手にしていた彼のフライパンが突然炎を帯びる。
 燃え盛るフライパンは思い切り薙がれ、少年の手を弾き飛ばした。
「熱ッ!」と少年は叫び、ナイフを落としてしまう。が、数歩後退して体勢を立て直すと、すぐに反撃に転じる。取り巻きが揃って飛び掛ってきたのも、ほぼ同時であった。
 それを阻止せんと、リディアとロルフも各々のヴェーダを解放する。
 微かな雨水からほとばしる水流と、乾電池を食い破って現れた雷。二人の超人的な力を前に取り巻きたちは動揺するも、なお闘志をみなぎらせて襲い掛かってくる。
 カイはというと、その隙を掻い潜って風折の少年のもとへ駆けつけていた。
 目立たないようにひっそりと声をかけると、少年は泣きながら飛びついてきた。
「か、カイ……」
「よしよし、もう大丈夫だって。安心しな」
 そう言いながら、カイは手近な窓を開く。丁度この少年が通れるくらいの大きさがあることを確認すると、羽織っていたマントを取り床に広げる。
「お前はこんな争いの場に居合わせるべきじゃない。早く友達のとこに行きな」
 呼び出された風の精霊はふわりとマントをさらい、少年の前にそれを差し出す。ぷかぷかと宙に浮かぶマントを見て、少年は呆けていたが、やがてカイの顔を見合わせた。
「大丈夫。今度は絶対上手くいくからよ」
 笑いかけるカイに少年も笑顔で答え、静かにマントに飛び乗る。カイは模造剣を指揮棒のように振るうと、すうと流れ込んできた風が少年を抱える。そして、そのまま少年を連れて飛び去っていった。
 それを見送り、カイは静かに呟く。
「後始末は、俺らに任せとけ」
 模造剣の柄を固く握り締め、大きく構える。
 数年前の紛争の部族出兵の後、殺しの業を捨てようと誓い、宝剣を返納して刃無きこの剣を手にしたカイ。
 今そこに生み出されるのは、疾風の刃。しかしそれに殺意はなく、浄化の意志が込められている。風の精霊もまた、それを願っているのである。
 荒れ狂う風が部屋を包み込み、只ならぬ覇気を伝える。
 リトルギャングの誰かがそれに気がついて叫んだが、あまりにも遅い反応だった。
 振るわれる刀身を離れ、波濤の如く押し寄せる風。
 戦いの渦中にあったステンキルファミリーを避けるように風は流れ、リトルギャングたちをいとも容易く押し流し、岩壁へと容赦なく叩きつける。
 ズダン、と鈍い音が室内に木霊し、部屋の中のあらゆるものが散逸する。天井のランプが大きく揺られ、弾ける様に割れた。
 そして、闇が辺りを包み込む。その刹那、何かが猫のように飛び掛る気配があった。
「よせ!」
 本能的に危機を察知し、叫ぶカイ。一帯が暗闇へと沈んだから確かな様子はわからないが、その動きがぴたと止まったのがわかった。
 明かり代わりにジャスティンが炎のフライパンを掲げると、そこには大人一人分ぐらいの大きさがある大鎌を握り締めたエーミーがいた。
 口角から血を滴り落としながらも、エーミーは殺意の眼で戦意を失ったリーダーの少年を見据えている。
 闇の塊として創生された鎌の切っ先を、少年の喉元に突きつけながら。
「殺しはやめろ。いくらそいつが憎くても、それだけはダメだ」
 何かを振り払うように、カイは首を振りながら諭す。リディアもそれに乗じてエーミーの肩に手を置くと、エーミーは鎌を消滅させる。それを機に、少年は完全に意識を喪失した。
 辺りは静けさを取り戻し、いつの間にか降りしきる雨も止もうとしていた。遥か天空では、曇天を引き裂くように陽光が差し込んでいる。


「ご馳走様。また来るよ」
「へい! ありがとうございましたー!」
 晴天の下、去り行く常連客の背に威勢の良い礼をするカイ。姿が路地の向こうに消えるのを見届けてから店内に戻り、思い切り背を伸ばした。
「なかなか様になってるな。お客からも結構人気があるみたいだし、お前、案外商才があるんじゃないの」
 一通り料理を作り終えたジャスティンも、客のいない店内で椅子に腰掛ける。お昼の忙しい時間もひとまず終わり、あとの三人も思いのままくつろいでいる。
「そうかもな。元々俺って喋りたがりだから、こういう接客も嫌いじゃないし」
 残った皿の後片付けをして、カイもカウンター席にどっかりと腰掛ける。
 カイが落ち着いたのを見計らって、ジャスティンは口を開いた。
「あいつら――リトルギャングだが、あれから少年院に入ったらしい。これまでかなり無茶苦茶なことをやってきたらしいが、更生の余地は残されているからしばらくそっちで面倒を見ることになったって、フリーマン刑事が言ってたぞ」
「そのほうがいいだろ。あいつらだって、訳ありでああなってたんだろうし」
 カウンターの新聞に眼を通しながら、警官たちに連行されていくあの日の少年たちの姿を、カイは思い出していた。
 家族を失い、物を失い、唯一の信念であったテムル人排斥すらも、擁護派であるステンキルファミリーに敗れたことで失った彼ら。全てを無くした彼らの目がひどく空虚に見えたことを、カイは鮮明に記憶している。
「あの子たち、エーミーと同じ戦災孤児だったんだってね。あれから色々聞いたんだけど、家族をテムル人に殺されたんだって……」
 そう語るリディアの顔は、どこか憂いを帯びている。自らの過去を重ねて思い出しているのだろうかと、カイは思った。
 彼らもエーミーも、結局は同じ紛争の被害者であった。そしてカイは、その紛争の一部族兵として参加していたのだ。
 自身の目で目撃した、戦争の成す悲劇。これは生涯忘れてはならないことだと、カイは心に刻みつけている。
「でも、だからってテムル人撲滅っていう考えには賛成できねえよな。みんながみんな、好き好んで戦争したわけじゃないんだから」
 ロルフは椅子の背を前に座り、未だリトルギャングを憎んでやまないエーミーに目を向ける。
「だからさ、エーミーもそこんところはわかってやりなよ。お前も、あいつらも、みんな望んで憎しみ合ってたんじゃないだろ」
 あらぬ方向を向いたままのエーミーに、注目が集まる。しばしの沈黙を破り、彼女は言った。
「頭ではわかってる。あいつ一人ぶち殺しても何の足しにもならないし、私が望む平穏も遠ざかるだけだって。でも、考えるより先に手が出てしまう今はまだ、それが理解できてない。ああいう風に憎しみを刺激されると、闇の精霊が『殺れ(やれ)』って唆してくるし」
 まだ絆創膏がちらほらと残る右腕を眺めながら、彼女は話を続ける。
「心に残る強い憎しみから、私の闇のヴェーダは生まれた。今はまだ、何処に行ってもこいつが消えることはないけど――わだかまりの原因になった二つの民族を心から許せた時、こいつとの腐れ縁は無くなると思う」
 それがいつになるかはわからないけど、とエーミーは付け足す。しかしカイは、その言葉にかぶりを振った。
「やれば絶対できるって。自分の気持ちに整理をつけるために、反乱軍集会でずっとみんなを支え続けてるんだろ。ヴェーダだって、無駄な存在じゃない。闇っていうちょっとおっかないものでも、お前を支える可能性にはなるんじゃないの。そのおかげでパフォーマンスができて、みんなと交流することができてるって考えるのはどうだ」
 楽天的なカイに「調子がいいのね」とエーミーは皮肉る。ただ、少し気が楽にできたのか、その顔には微笑みがあった。
「可能性、か……。叔父さんが言ってたことを思い出すな」
「そうだね。『不可能を可能にする力であり、簡単に人を殺す武器でもある、それがヴェーダだ』って……。怖いところもあるけど、そういう意味では私たちってみんな可能性を持ってるんじゃないかな。だからこそ、お父さんもお母さんもそれを信じてテムル人のみんなを助けてたんでしょ」
「そうだな」とジャスティンは呟き、天井を仰ぎ見る。
「俺らとテムル人のみんなを会わせたのも叔父さんと叔母さんのヴェーダだったし、カイと話すきっかけになったのも俺らのヴェーダだった。なんか、運命の引き合わせってやつがあるんじゃないの。これも精霊様のおかげかもな」
「運命かあ。そういえばそうかも」
 ロルフは冗談半分で語るが、案外そうでもないかもしれないとカイは思う。
 試練がきっかけになってあのバスに乗り、この都会にやって来てステンキルファミリーに出会い、都会の仲間たちや反乱軍集会に出会ったのだ。カイ自身を大きく変える契機がこれだけ沢山あったのは、奇跡といっても過言ではない。
 それとも父は、最初からこれを期待してカイを都会に送り出したのだろうか。この国はテムル人の基準だけで回せるものではないと、カイに学ばせるために。
 確かに草原の民でエレナルド人の実情を知る者は少ないし、理解を示すほど好意的な者も存在しない。あの紛争以後は、なおさらである。
 そんな中で都会を知り、エレナルド人に親しくできるカイが部族長としていたとすれば、凝り固まった草原を変えるきっかけにはなるかもしれない。
 よもやこの試練は、異端であり新鋭でもあるカイを部族長に立てて、草原全体を変えていこうという父の目論見の一環では……。
「――まさかな」
 妄想を打ち切り、北の大地に繋がる青空を眺めながらカイは笑う。いくら頭の切れる父でも、そこまで企てることができるはずがない。
「お、客が来たみたいだな。よし、休憩終了。お前ら仕事しろよ」
「はーい」
 店の前に立って相談するテムル人の家族を見て、ジャスティンは店員たちを促す。カイもまた、今日の担当であるレジへと戻っていく。
 まずは爽やかな笑顔で迎えられるように、顔面の筋肉をほぐしておく。ロルフに「アホみたいな動きだ」となじられたが、そんなことはお構いなしである。
 それからいつものように客を受け入れるカイに、いつものようにもてなすステンキルファミリー。いつものように時期になれば反乱軍集会を開くし、ヴェーダでパフォーマンスもする。エレナルド人とテムル人のごった煮で、どんちゃん騒ぎもする。
 彼らにとっては何気ないけれど、傍から見れば少し特殊な人間たち。そんな彼らの出会いによって、小さな反乱は大きな反乱へと変わる時を迎えようとしていた。




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