霧島皐月|
私は、 何もない、だだつ広い荒野であつた。 赤い土が視界を覆ひ、時折吹く風に舞ひ上げられた土が眼球の隙間に滑り込む。 ざらざらとした土に足をとられ、何度もよろめいた。 乾燥してゐる所為であらうか。ぽきり、と こんなこともあらうかと、私は接着剤を常備してゐる。 骨が折れるのならば、折れる度につければ良いと云ふだけの話である。骨が折れる話ではあるが。 赤い荒野には面白みなどてんで有りはしない。 倦怠感が私の中に居座つてゐた。 一体、いつからこのやうに歩んでゐるのであらう。 一体、何故このやうに歩んでゐるのであらう。 全く見当がつかぬ。 ※ 家に帰りたくなつてきた。 このような荒野に居ても仕方があるまい。家に帰つて妻の肉にでも そう思ふと、妻のしつとりと濡れた肌に焦がれる気持ちが激しく燃え上がつてきた。 いや、そもそも私がここに居るのは妻が原因であつたのではなかつたか。 ある日突然愛想を尽かされた私は、代はりの男を買つて来い、と追ひ出されたのであつた――やうな気がする。 だうにも記憶が曖昧であつた。 しかし、残念である。これでは濡れた妻の肉に埋もれる事も出来ないどころか、家に帰ることすら出来ない。 何とも恩知らずな女である。 さうは言つても、妻は長年連れ添つてくれた。この恩返しはすべきではないか。 妻の為に近くの商店で適当な男を買つて来やうかとも考へたが、そのやうな義理もあるまい。 だうせ私が買つた女である。 ああ――何だ、やる事はあつたのか。 差し当たつて、新しい妻を探すが良からう。 ※ 新しい妻を探すにあたつて、どのような妻を探すべきか考へることにした。 前妻は淫靡な空気を纏つた女であつた。 抱かれた姿がこの上なく美しかつた。 白銀の月明かりに照らされて、私の腕の中で悶へてゐた姿を懐かしく思ひ出す。 畳一畳分ほどに広がつた顔も前妻の魅力の一つであつた。 扉を通らうとする度に、アラ、と言つて毎回毎回引つかかる様子が愛らしかつた。 ミロのヴィーナスが如く欠損した両腕も、前妻の美しさを醸し出してゐたと云へるであらう。 その所為で前妻は何かと不自由してゐたのだけれども、代はりに背中から生えてゐた二本の腕が器用に働いてゐた。 先刻から妻の魅力あふれる容貌ばかり賛美してゐるが、何も妻は容貌ばかりが優れてゐたという訳ではない。 妻は類まれなる器量よしであつた。家事をそつなくこなし、私は随分と助けられたものである。 しかしそのやうな魅力あふれる前妻も、アンタみたいな愚図な男、と私を罵つて追ひ出した。 私の方はこれほどまでに妻を愛してゐたと云ふのに、妻の方はさうでなかつたのであらうか。 それに何よりも先ず、妻を買つたのは私である。妻は分を弁へるべきであらう。 まあ、仕方あるまい。世の中は結局のところ、需要と供給の関係で成り立つてゐる。 いらないと云はれてしまへば、だうしようもないのである。 さうは言つても、私にしてみれば前妻は申し分ない女であつたのである。 さう考えてみると、前妻によく似た女を探すのが良いやうに思へてきた。 畳一畳分の顔を持つた女と云ふのは中々居ないかも知れないが、半畳ほどであつたとしても我慢することとしやう。 両腕の無い女は探せば居るだらう。片腕の無い女というのは街を歩けば腐るほど居る。両腕とて、大差あるまい。 後は腕がどこから生えているかといふ問題があるが、腹からと云ふのも一興かも知れない。ただ、脚から生えているようでは戴けない。 さうと決まれば、早めに行動するべきであらう。 私は早速店に行く事にした。 ※ 新しい妻を買ふに当たつて、私は行きつけの店に行つた。 赤い荒野を三十歩進み、五番目の大通りから二十七番目の裏道に入り、十九番目の雨樋を上つた先にその店はある。 恥ずかしながら、前妻は私の十番目の妻であつた。 確か、最初の妻は五つの頃に買つた。 私はもう百を優に超えてゐるから、一人と平均十年程連れ添つてゐると云ふ事になるであらうか。 ここの店主とも長い付き合いである。 暖簾をくぐると、いらつしやいませ、と鈴を転がすやうな女の声が聞こえた。 目の前には土間が広がり、暫く行つたところで一段高くなつている。そこには長い付き合いになる店主が座つてゐた。 浴衣を少し着崩しており、傍に置いてある肘置きにしなだれかかるように姿勢を崩して座つてゐる。 ふくよかな肢体がこの上ない美を醸し出してゐた。 浴衣は腹の部分だけ開けてゐる。そこから覘いてゐる腹には妖艶な笑みを浮かべてゐる顔があり、魅力的であつた。 この店主もなかなか魅力的な人物であるのだが、如何せん人妻であつた。 八十七人の夫を抱へる人格者である。 あなたを八十八人目にするのも 下らない、と言はれやうとも、男の矜持は守りたいのである。 店主と向き合つて、こんにちは、と私が言ふと、お久し振りですね、と店主は笑つた。 またあなたに会へて嬉しいですわ。さうは云ひましても、なるべく会はない方が宜しいのでしやうけど、と店主は悪戯つぽい笑みを絶やさない。 いやはや真に面目ない、と私は苦笑した。 先だつて妻に追ひ出されてしまひまして、またお世話になりに参りました。 以前の奥様――あれは上玉だつたのですけどねえ、と店主は難しい顔をした。 あれ以上の者となると、なかなかをりませんわ。 いや、あれ以上である必要はないのです、私は慌てて店主の言葉を否定した。 アラ、さうなのですか。私の言葉を聞ゐた店主は不思議さうに口を開けた。 ええ、さうです。私にとつて前妻は理想の伴侶でした。 あれ以上は求めません。それは前妻に対する非礼ともなりましやう。ただ、妻と同じぐらいの器量よしを探してゐるのです。 店主はそれを聞いて、困つたやうな顔をしながら それは奥様――おつと失礼しましたわ。前の奥様以上の女を出せと言つているのと同じです。 言いましたでしやう? 前の奥様はかなりの上玉だつたのですよ。 それほどまでに居ないものなのでしやうか、前妻ほどの女性は――。 私の問ひに対して、店主は間髪を入れず、ええ、と答へた。 何といふことだらうか。私は途方に暮れてしまつた。 男の矜持は守りたいなどと偉さうなことは云つたものの、私は独身貴族が決め込めるほど自立した人間ではない。 矢張り、連れ添つてくれる女は必要であらうと考えてをり、そのやうな存在が居ないと云ふのはなかなか考えられなかつた。 しかし、前妻のやうな器量よしで容姿も優れた魅力ある女を知つてしまつた後では、なにか適当な女で妥協しやうといふ気にはなれなかつた。 前妻に比べれば、それ以前の妻など紙屑も同然である。勝負にもならない。 大人の恋愛は妥協と打算のせめぎ合い、といふ言葉を聞いたことがある。しかし、これは恋愛ではない。最早生きるか死ぬかの問題である。 ああ、妻の大きな顔、欠損した腕、濡れた肌が懐かしい。だうして妻は私に愛想を尽かせてしまつたのだらうか。だうして私は愛想を尽かされてしまつたのだらうか。 新しい妻が得られないかも知れないとなつて、慌てている私を見かねたのだらうか。店主がもし、と声をかけてきた。 老婆心ながら一言宜しいでしやうか。 何でしやうか。私は気の抜けた声で答へた。私の胸は失意に満ちてゐた。ああ、前妻が懐かしい。 私もこれを生業にして 少々芝居がかつた店主の前口上を聞きながら、私は前妻の事を思ひ出してゐた。 彼女は私の家に来たその日に、その大きな顔で玄関を損なつたのである。今から思へばそれも良い思ひ出であつた。 前々から思つてゐた事なのですが、少々見識が狭くはありませんか? 前妻の事ばかり考えてゐた私であつたが、店主の突然の無礼とも云へる質問に面食らつてしまつた。思はず、もう一度言つてゐただけますか、と訊き返した。 ですから、私が思ひますに少々見識が狭いやうでいらつしやると感じるのです。 店主は先刻と同じ言葉を繰り返した。だうやら私の聞き間違いではなかつたやうである。 しかし、見識が狭いなどと言はれる筋合いはないと私は思つた。 私は独学で幼稚園を卒園した身である。そんな私が、見識の狭さを責められる云はれは無い。 どういうことでしやう。多少の不満を滲ませた声音で私は店主に問ふた。 勿論説明致しますとも。さう云つて、店主は喋り出した。 まず、あなたの前の奥様の、そのまた前の奥様の話を致しましやうか。私の記憶が正しければ、顔の大きさが四畳半はある奥様でしたわね。 店主の問ひに対して、私は首肯した。その妻のことは忘れもしない。 四畳半もある顔は云ふまでもなく魅力的であつたが、現実問題大きすぎたのである。如何せん大きすぎるものだから、一挙一動ごとに辺りにある物を損なつた。 それに加へて彼女は、そのやうなことは些末な事、と意にも介さず動き回るので、ひたすら物が壊れる。彼女と結婚して離婚するまで、物が損なはれなかつた日はなかつた。 それでは、更にその前の奥様はどうでしやう。店主は重ねて問ふてきた。覚えていらつしやいますか。 勿論です。私は首肯した。忘れもしません。あの千手観音のやうな腕は素晴らしかつた。 千手観音のやうな腕、と云ふのは嘘ではない。現に彼女には何本もの腕が生え、自分でも何本生えているのかは数へたことがない、と云つてゐた。 果てしなく多い腕と、欠損している腕がところどころに混在してゐる様子は創造と破壊の調和を彷彿とさせ、この世の物とは思へない美しさを誇つてゐた。 しかし、彼女が年老いていくにつれてぽろりぽろりと腕が抜け落ち、最後には一本として腕がなくなつてしまつてゐた。 それはそれで、欠損した両腕が強調され、かの有名なミロのヴィーナスのやうで美しかつたのである。 しかし、あの創造と破壊が混在した圧倒的な美を見せつけられた後では、私は何の魅力も見いだせなかつた。 それで、以前の妻たちが何だと云ふのですか? 何故私を見識が狭いなどと言ふのです? 店主の持つて回つた口調に私は苛立ち、つい強い口調で問い ご機嫌を損なはれたのなら、申し訳ございません。謝りますわ。 口調こそ丁寧であつたが、店主は聞き分けのない子供を諭すやうな口調で謝罪した。 見識が狭い、といふのは失言でしたわ。訂正ゐたします。正しくはかうですわね。お客様はもう少し視野を広く持たれるべきです。 視野――を広く。 私は眉をひそめた。一体だういう事であらうか。店主は何を言ほうとしてゐるのか。私には皆目見当もつかなかつた。 ええ、視野を広く。私が憶えてゐる限り、お客様はだうも同じやうな女性ばかりを求めていらつしやいますわね? それはさうです。誰しも好みと云ふものはあるでしやう。何も不思議な事などありません。 お客様の好みを否定するつもりは御座いませんわ。ただ、少しばかり視野を広げると云ひますか――少し変わつた女性に目を向けてみても宜しいのではないでしやうか? 私は漸く得心いつた。 成る程。あなたが仰らうとしてゐる事が漸く判りました。私が既に十人の女と別れてしまつてゐる原因はそこにあるのだと仰りたいのですね? 判つてゐただけて幸ひですわ。私の言葉を受けて、店主は笑みを深くした。 つまり、かういう事である。 確かに、誰しも個人の好みと云ふものはあるだらう。しかし、私に限つて云はせて貰へば、それにあまりに拘り過ぎるきらひがあると云ふ事である。 あまりに自分が描いてゐる理想といふものが強すぎる為に、それに当て嵌まる女が居た場合には一も二もなく惚れ込む。 しかし、一度自分の理想から女が外れてしまつた場合には、全く愛せなくなつてしまふといふ訳である。 成る程。私は発見を確かめるやうに何度も頷いた。 確かに、私にはあまりに理想を追ひ求めてしまふといふきらひがあります。 かういうものをしつかりと持つてゐない男は駄目だと考へてゐたのですが、あまりに強すぎるといふのも考へものだ。改善してみることとしましやう。 それが宜しいと思ひますわ。店主はさう言つて微笑んだ。 それでは早速ですが、新しい妻を紹介して戴けませんか。いざ違う方面に視野を広げるとなると、心が躍つて参りました。早く、早く会ひたいのです。 まあ、少々お待ち下さい。気が急いてゐる私を宥めるやうに、店主は手を お客様にはもう一言申し上げておきたいことがあります。宜しいでしやうか。 店主の問ひに私は、構ひません、と首肯した。 先刻は唐突に視野が狭いなどと言はれたので多少気を悪くしてしまつたが、やはりこの店主は人格者である。先刻の指摘は実に的を射てゐた。続く助言も聞いておいて損はあるまい。 是非ともお聞かせ願ひたいものです。私は店主を促した。 それでは、僭越ながら。店主は軽く咳払ひをして話し始めた。 お客様は常々、男の矜持と仰つていらつしやいますわね。以前、私が添はないかとお誘ひした時も、あなたと添つては男の矜持が保てさうにない、と仰つてお断りになられましたわ。 いやはや、お恥ずかしい。私は頭を掻いた。 さては、あなたはこれも良くないと仰りたいのですね。確かに、これもつまらぬ拘りと云はれてしまへばその通りです。 しかし、何といふか私も古い人間でして、凝り固まつた考へはなかなか 矢張り夫婦と云ふものは、男がしつかりとして引つ張つていかねばならぬ、と考へてしまふのです。 云ふなれば――妻は殆ど自分のものと言へるぐらいに、といふことになりませうか。 いやはや、何とも申し訳御座いません。少々差別的とも言へるやうな言い方になつてしまつて。 私の言葉を聞いて店主は微笑んだ。 お客様の仰る事は判りますとも。私はお客様よりも長く生きてをりますから、そのやうな男性に会つた事など星の数ほど御座います。 しかし、先刻私が申し上げた事も少々勘違ひなさつてゐるやうですから改めて申し上げておきますが、私は何も考へを全て改めよ、と申し上げてゐる訳では御座いませんわ。 云ふなれば、少しだけでも視野を広げて戴ければ宜しいのです。それだけでも充分な変化は 少し、で宜しいと? 私の問ひを聞いた店主は、はい、と微笑んだ。実に魅惑的な微笑みであつた。 判りました。それならば直ぐにでも出来さうです。実に益のある助言を有り難う御座いました。 とんでも御座いませんわ。店主はさう言ひながら立ち上がつた。 お待たせしました。それではご案内致しましやう。きつと気に入られる筈ですわ。 ※ 店主に連れられて私がやつて来たのは、例の赤い荒野であつた。 店主が私を先行するやうな形で、私達は歩いてゐる。 ここ――ですか。 店主は振り返つて、訝しげに問ふ私を安心させるやうに微笑んだ。何時でも笑みを絶やさないのはこの店主の魅力の一つと言へやう。 さうですわ。ここにお客様に紹介したい女性はいらつしやいます。 どのやうな方なのでせうか。ざくりざくり、と音を立てながら私と店主は歩を進めてゐた。この赤い荒野に出る度に、だうにも筋肉や骨が損なはれて困る。 実際、先刻から既に十三本の骨と二百三十六本の筋組織が損なはれてゐた。接着剤を手放す事が出来ない。 店主はと言へば、だうと云ふ事なく軽快に歩みを進めてゐる。私は店主に対する尊敬の念を深くした。流石に良識ある女性は違ふものである。 さうして歩いてゐると、店主が突然歩を止めた。だうしたのですか、と問ひかける間もなく店主が振り返つた。 私が御供出来るのはここまでです。後はご自分一人で向かはれなければなりません。 心配なさることはありませんわ。ここから五十三歩進んだところで百十四粒の砂を掬ひ上げて下さい。その後、その砂をゆつくりと溢しながら辺りを見回すのです。五十六粒目と八十七粒目の間ぐらいで、お目当ての女性にお会ひ出来る筈ですから。 ああ――、でも、女性が現れたからと言つて、直ぐに砂を全部落とさないで下さいまし。最後まで少しずつ溢していくのです。 五十三歩進んだところで百十四粒の砂を掬ひ上げて、それを溢しながら辺りを見回して、五十六粒目と八十七粒目ですね。それで、砂は最後まで少しずつ溢す、と。私は店主に確認しやうと復唱した。 ええ、その通りです。但し、決して間違へないで下さいまし。決してですよ。 心得てをりますとも。私は力強く頷ゐた。この店主は良識ある女性であるのだが、だうもこのやうな儀礼的な事に拘り過ぎる節がある。しかし、それもまた魅力と言へば魅力であるのかも知れなかつた。 それでは私は失礼しますわ。上手くいかれることを心からお祈りしてをります。 さう云ふと、店主は踵を返して来た道を戻り始めた。有り難う御座いました、お世話になりました、と頭を下げながら私はその背中を見送つた。 さて、と私は歩みを進めていく事にした。私が全幅の信頼を置く店主があれほどまでに推す女性である。きつと素晴らしい女性に違ひない。私は胸の高鳴りを抑へきれなかつた。 まず、五十七歩歩く。私は店主に云はれた通りの所で歩みを止めた。何と云へことはない。 次に百三十四粒の砂を掬ひ上げる。これは少々難題であつた。如何せん砂は小さいのである。掬ひ上げている間に、気を抜けば指の隙間から零れ落ちていつてしまつた。 結局十七回の試行錯誤の末に、きつかり百四十五粒の砂を拾ひ上げることが出来た。 手が離せないものだから、折れた骨や千切れた筋繊維がそのままになつてしまつてゐる。仕方があるまい。これから現れる筈の女性に会ふ直前に直すこととしやう。 さらさらと砂を溢しながら辺りを見回していく。最早、足の筋繊維はぼろぼろであつた。 その上更に躰を回すのだから、堪つたものではない。ぶちぶちと小気味良い音を立てながら、より多くの筋繊維が千切れていつた。 しかし、これも新たな伴侶に出会ふ為、と私は耐へながら作業を行つてゐた。 すると、唐突であつた。店主が言つた通り十六粒と二十七粒がこぼれ落ちる間に、眼前に巨大な これは――。 そろそろであるとは覚悟しておきながらも、あまりに突然の出来事であつたので私は面食らつてしまつた。思はず、残りの砂を一度に落としてしまつた。 本当に巨大な竈であつた。土窯で、上部には煙を吐き出す為の煙突が一つ据はつてゐる。私から五十七歩は離れてゐるだらうが、ここにまで熱気が伝わつてきた。 はて、私の伴侶候補はどこであらうか。手順通り行つてこの竈が出現したと云ふ事は、この竈はその女性が動かしてゐると考へて間違ひあるまい。 ふらふらと竈に近づきながら、私はふと気づゐた。何やら ああ、何であらう。知りたい。とても知りたい。新たな伴侶を得ることも重要であるのだが、この臭ひの元を探ることはそれに負けるとも劣らない重要なことであらう。 歩みを進める度に皮膚が それでも、私は歩まねばならない。新たな伴侶を得るという他に、もう一つ歩みを進める理由が生まれたのだから。 やるべきことが見つかり、人生が充足していくと云ふのは心地良いものである。私は新たな目的に義務感を見出してゐた。 この臭ひの元を――知らねばなるまい。 ※ アラ、珍しい。お客様だわ。 竈までほんの数歩と云ふ所まで近づいてゐた時、私は唐突に声をかけられた。 びくり、と驚ゐた拍子に、竈の熱気の所為で劣化してゐた首の筋繊維がぶちぶちと千切れてしまつた。更には首の骨も折れて、殆どそこで泣き別れするやうな形になつた。 アラ、御免なさい。驚かせてしまひましたね。先刻の声がさう続けた。 首が泣き別れしないやうにと気を付けながら、私は声がした方を見やつた。 そこに居たのは一人の少女であつた。白いブラウスに黒いスカートを穿いて、その上から真つ赤なエプロンを身に着けてゐた。 こ、こんにちは――私はしどろもどろになりながら首を元の位置に戻し、接着剤を念入りに塗りつけた。初対面から、このやうな無様な様子を晒してしまつたのは、かなりの失点である。 あの臭ひに気をとられて、元々損なはれてゐた躰の各部を直してゐなかつた所為で、接着剤を塗り付けるにしてもかなり難儀してしまつたことは云ふまでもない。 漸く体裁を整え、私はもう一度少女にこんにちは、と声をかけてから、名を名乗つた。そして、店主からの紹介を受けてここへやつて来たといふ来訪の意図を告げた。 まあ、さうですか。それを聞ゐた少女は嬉しさうに笑つた。 私も素敵な殿方とお会ひしたくてあのお方を御頼りしたのですが、なかなか誰ともお会ひ出来ずに途方に暮れてゐたのです。 あなたのやうな方は、私は理想の方です。 少女は屈託のない笑顔で笑つてから、こちらに机と椅子が御座いますのでお座り下さい、お茶をお出しします、と私を促した。見ると、竈の傍らに丸机と二つの椅子があつた。 これはどうも、と少女に礼を言つて椅子に座りながら考へた。 未だ初見の感想ではあるが、少女からはかなりの好印象を受けた。相当な器量よしと見受けられる。 確かに、顔が畳一畳ほどある訳でも、両腕が欠損している訳でもない。しかしその一挙一動からは、えも言はれぬ愛らしさが醸し出されてゐた。 年の頃は、一見しても私と二百は離れていやうかと云ふぐらいである。このやうな少女が見向きもされないとは、全くもつて最近の若者は見る目が無い。 お茶です。少女がさう言つて、盆に載せた茶を持つてきてくれた。濃い赤色をした紅茶である。今淹れてくれたのであらう。湯気が立つてゐた。これはだうもと言つてティーカツプを手に取り、口をつける前に臭ひを嗅いだ。 あの臭ひだ。 私は衝撃を受けた。これは、あの臭ひだ。先刻から鼻腔を擽り、私を魅了してやまなかつた臭ひ。それがこの紅茶からしてゐる。震へる手、高鳴る鼓動を必死で抑へながら、私は茶に口をつけ、一気に飲み干した。 ぬるり、とした絶妙な感触が咽喉を過ぎていつた。何とも云へない。素晴らしいものであつた。 すみません――。私は興奮も醒めぬ間に、目の前に座つて同じやうに茶を楽しんでゐる少女に声をかけた。 何でせう。少女が不思議さうに首をかしげた。 大変、美味しいお茶でしたよ。何より臭ひが良い。 私はまずそのやうに賛辞を述べた。実際、とても美味であつた。それは伝へるべきであらう。それを聞ゐた少女は、有り難う御座います、と微笑んだ。 しかし、あれはどのやうな茶葉をお使ひなのですか。私はあなたにお会ひする前から、この臭ひが気にかかつてゐたのです。大変馨しい臭ひだ。是非、お聞きしたひものです。 ふふふ。それを聞ゐた少女は可笑しさうに笑つた。私の顔を窺ひながら、秘密です、と悪戯つぽく続けた。 秘密――ですか。私は落胆してしまつた。しかし、諦める気にはなれなかつた。何としてでも、知りたい。 御一つ申し上げるとするならば、茶葉は普通の紅茶と同じなのですよ。手元のナプキンで口元を拭ひながら、少女が云つた。 同じなのですか。この少女の言葉には私は正直に驚いた。とてもさうとは思へない。私は珈琲党であるが、紅茶も嗜む程度に飲む。しかし、このやうな紅茶は飲んだ事がなかつた。 但し、一つ隠し味を使つてゐるのです。それが、この臭ひを醸し出してゐるのですよ。 一体だう云ふ事であらう、と考へ込んだ私に、お腹は空いてはゐませんか、と少女が声をかけた。 私はそこではた、と気付ゐた。云はれてみれば、今朝妻に家を追ひ出されてから一切何も口にしてゐない。気が付いて初めて、激しい空腹感に襲はれた。 私のそのやうな様子が顔に出てゐたのか、少女はうふふ、と笑つてから席を立ち、少し待つてゐて下さいね、と言つた。 御馳走を用意いたしますから。 ※ 少女はそう云つて竈の裏側へ行つてしまつた。一人取り残された私は、生涯の伴侶といふ視点で彼女の事を考へてみることにした。 結論から云へば、彼女は魅力的であり生涯の伴侶としては申し分ないといふ事になるであらうか。 私は決して少女趣味がある訳ではないが、それでも彼女の一挙一動には不思議な魅力を感じざるを得ない。孫を見守る祖父のやうな心持ちである。 彼女は畳一畳ほどの大きな顔をしてゐる訳でもなく、ミロのヴィーナスが如く両腕が欠損してゐる訳でもない。しかし、その魅力は何故か筆舌に尽くし難かつた。 それに、彼女はあの馨しい臭ひのする茶を淹れる事が出来るのである。これは大きな加点であらう。 店主に云はれた、狭い視野に囚はれないという事を実践する上でも、彼女を生涯の伴侶とするのは良い事であるやうに思はれた。 さうと決まれば、善は急げ、である。彼女は今食事の準備をしているやうであるが、食事の席でこの話を切り出す事としやう。 お待たせ致しました。 一体どのやうに切り出したものかと私が思案しやうとしてゐたその時、少女が唐突に現れた。皿を手に持つてをり、その上には程よく焼かれた肉が置かれてゐた。 あの臭ひだ。 今度はわざわざ臭ひを嗅ぐまでもなかつた。肉を持つた少女が現れた瞬間から、例の臭ひは先刻よりも数段濃く馨つて来てゐたのである。 臭ひの濃さから考へるに――あの臭ひが例の臭ひの元であるのだらう。 といふことは、先刻出された茶の隠し味というのはあの肉であつたのだ。差し詰め、肉汁などが入れられてゐたのであらう。 茶の隠し味が肉といふのは、なかなか斬新である。全くもつて想像もつかなかつた。私が少女に感心してゐると、少女は肉を私の前に置いた。 さあ、出来ました。私、頑張つたのですよ。あなたの為ですから。どうぞ、召し上がつて下さい。 少女はさう云ひながらナイフとフォークを続けて置き、もう一度、どうぞ、と促した。 有り難う御座います、と云つて私はナイフとフォークを手に取り、肉を丁寧に切り分けた。少女は向かい側に座つてそのやうな私の様子を嬉しさうに見ている。 遂に例の臭ひの元に出会う事が出来たのである。私の緊張は極限に達してゐた。一体どのやうな味がするのであらうか。 一つの肉片をフォークで突き刺し、恐る恐る口に運んだ。 口に入れた瞬間、私は至福の時を迎へた。 ※ 噛めば噛むほど肉汁は舌に絡みつき、柔らかい肉は少しだけ 素晴らしい――。全て食べ終へた私は思はず嘆息した。 このやうな肉は食べた事がありません。何とも表現し難い。素晴らしい味です。 喜んで戴けて光栄ですわ。少女は満足げに笑つてゐた。 しかし、あなたも粋な事をしますね。先刻私に茶を出したのはこの茶を美味しくしてゐる隠し味の存在を示唆する為であり、この肉を食べさせる事によつて、肉が隠し味となつてゐる事が判るかだうかを試していらつしやつたのでせう。 試したなんて畏れ多いです。少女は顔を赤くして否定した。ちよつとした余興ですよ。楽しんで戴かうとしただけです。 いえいえ、存分に楽しませて戴きました。そのやうな少女に、私は笑顔で応じた。少女は今や耳まで赤く染めてゐた。私はこれに乗じて告げてしまふ事にした。 あなたはこのやうな粋な計らいも出来る聡明な方とお見受けゐたしました。だうでしやうか。このやうな私で良ければ添ふて戴けませんか。 まあ、と少女は一層顔を赤く染めた。そして小さな声で、嬉しいです、と云つた。 このやうな私で良ければ是非とも。 そう云つて少女は微笑んだ。私も微笑み返した。 ※ どのくらいの時間さうしてゐただらうか。ことを終へた私達は、裸で互ひの躰の温もりを確かめてゐた。 ところで、と私は切り出した。少女は私の胸でうとうとと 先刻の肉、あれは何だつたんだい。あれは本当に美味しかつた。是非とも知りたいんだ。 それを聞いた少女は、うふふ、と微笑んだ。むくりと起き上がつて、一枚の布を躰に纏つた。まだ熟れきつてゐない肢体を護るかのやうに、そのまま布を巻きつけていく。 良いわ、こちらにいらして。そう云つて少女は竈の裏へ歩き始めた。 伴侶も得て、あの肉の正体も知ることが出来たならば、もう云ふ事はあるまい。私は少女の後について竈の裏側へと回り込んでいつた。 少女は竈の扉の前で私を待つてゐた。私もそちらに近づいていく。 さあ、早く教へておくれ。さつきから気になつて仕方がないんだ。 私は少女を急かすと、少女は怒つたように頬を膨らませた。 まあ、非道い。わたしを抱きながら、そんな事を考へていらしたなんて。私より、あのお肉の方が大事なのかしら。 慌てて私は否定した。さういふ訳ではない。言葉の綾である。 そんな私の様子を見た少女は、うふふ、と笑つて私を抱きしめた。からかわれてゐたのである。全くしてやられたと、私は少女に口づけした。 抱擁を解いた少女は、ぱたぱたと歩いて竈の扉に手をかけた。 さあ、ここに知りたかつた肉があるわ。元々は生きてゐる状態で捕まへてきて、自分で さう云つて少女が見やつた先には血に塗れた台と 成る程。私は頷ゐた。と云ふことは、あのエプロンは血が その通りよ。少女は笑ひ、演出過剰気味に礼をした。 さあ、ご覧になつて。これが、あなたが知りたかつた肉の正体よ。 ※ 端的に言ふならば、そこに在つたのは人の四肢である。 しかし、そこに在つたのは中途半端な数ではなかつた。 腕、脚、胴体、腕、腕、胴体、脚、腕、胴体、脚、脚脚腕胴体脚胴体腕脚胴体腕腕胴体脚腕胴体脚脚脚腕胴体脚腕腕腕腕胴体腕胴体脚胴体腕脚胴体腕胴体腕胴体足腕胴体脚脚脚腕胴体脚胴体胴体腕胴体脚胴体脚胴体腕脚胴体腕脚腕胴体足腕胴体脚脚脚腕胴体脚胴体――。 数える気にもならない。それほどの圧倒的な量の暴力が私の視覚を襲つた。 こ、これは――。 私は思はず言葉を失つた。先刻私が口にした肉は、人の肉。道理で柘榴の味がした訳である。私は妙に得心がいつてしまつた。 そして、紅茶のことも思ひ出してゐた。あの、ぬるりとした咽喉越し。ああ、あれは肉汁のそれなどではない。 何と云ふことはない。人の血の感触ではないか。 これだけ集めるのには苦労したのよ。少女は歌うやうに云つた。だうかしら。感想を聞きたいわ。 私は口の中で溢れさうになつてゐた唾液を嚥下した。竈の傍に立つてゐるだけで臭ひが鼻腔を擽り、食欲が喚起される。 素晴らしい――。 云ふまでもなかつた。あれほどの味の食材に対して、だうして否定的な事が云へやうか。それに、可愛らしく愛すべき妻が苦労して集めたものである。 だうかしら、もう一つ食べてみない。 私が竈の方をじつと見てゐると、少女が魅力的な提案をしてきた。 良いのかい。私は思はず問ひ返した。これは少女が苦労して集めたものである。何の為にか。云ふまでもなく、自分で食べる為であらう。 少女は首を振つた。そんな事を気にしなくて良いのよ、と蠱惑的な笑みを浮かべる。 あなたが美味しく食べてくれるのなら、わたしも幸せだわ。何と云つても、私達は夫婦なんですもの。 それならば、と私は少女の厚意に甘へさせて貰ふ事にした。 開かれている竈に手を入れ、最初に手に当たつた肉片を掴みだす。右腕であつた。 悪いね、有り難う。少女に短く礼を云つてから、私は右腕に食らひつゐた。肉汁が口腔内に溢れる。実にまろやかな味わひで、全くしつこくなかつた。 殆ど時間をかけずに私は右腕を食らい、骨までしゃぶつた。二つ目でも全く飽きない。本当に素晴らしい肉である。 だうです、本当に美味しいお肉でしやう。少女が傍で笑つてゐるのが判つた。実に魅力的な笑みである。 しかし、私の頭は別のことばかりに気をとられてゐた。 もう一つ。 私の言葉に、何と仰いました、と少女が首を ――もう一つ。もう一つで良いから食べさせてはくれないか。 私の厚かましい提案に対して、少女は厭な顔一つせずに頷いた。ええ、構ひませんよ。 私は礼も云ふ事なく竈の扉に駆け寄つて、そこから躰ごと竈に入り込んだ。アラアラ、と少女が可笑しさうに嗤ふ声が後ろで聞こへた。 取り敢へず、手元に在つた左脚に手を伸ばして食らいつゐた。間髪を入れずに食べ終はる。 そして次は左腕、右脚、胴体、左脚、腕、胴体、脚、胴体腕脚胴体腕胴体腕胴体足腕胴体脚脚脚腕胴体脚胴体胴体腕胴体脚胴体脚胴体腕脚胴体腕脚腕胴体脚腕腕胴体腕胴体――。 ――全く仕方がない人。 さう云つて嗤ふ少女の声が聞こへてきたが、私は全く気にも留めなかつた。 ※ 私が全ての肉片を食べ尽くすのに、十分もかからなかつた。 少女は、竈内の熱気で躰に激しい火傷を負つて出てきた私を抱きしめて愛おしさうに 良い食べつぷりね。見てゐるこちらが清々しくなるわ。そう云ひながら、少女は軟膏をたつぷりと塗つてくれた。 でも、躰は大事にしなくては駄目よ。 少女に云はれて気が付いた。そうだ。今や私は少女と添ふた身である。 すまない。今となつては私には君が居るのだ。この躰も自分だけのものではない。私と君のものだ。 そう、あなたとわたしのもの。そう言つて少女は嬉しさうに嗤つた。 私も少女といふ新たな伴侶を得て嬉しいのだが、少女もさうなのであらう。そう思つて貰へるのは、私としてもこの上なく嬉しい事である。 少女に躰を摩られながら、私は目を閉じた。思い出すのは勿論、あの肉の事である。 あの味。 あの肉汁。 あの食感。 甘さも辛さも苦さも、全ての味を超越したやうな味であつた。 濃厚ではあるものの、全くしつこさはない。 口に入れれば溶けてしまうやうではあつたが、しつかりと歯応へもあつた。 ああ。 ああ。 あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。 あの肉が食べたい。 あの肉が喰らひたい。腹一杯になるまであの肉が喰らひたい。 何処かに、何処かに、何処かにあの肉はないのか。 もう我慢ならぬ。私は、少女の肩をがしりと掴んだ。はらり、と少女を覆つてゐた布が落ちた。 あの肉は――もうないのかい。 さう云ひながら、少女の首筋に舌を這はせた。少女がびくりと動いた。 あら、未だ――食べ足りないの――。苦しそうに喘ぎながら、少女は漸くそれだけ口にした。 舌を首筋に這はせ、そのまま下へと滑らせていく。 ああ、未だだ。未だ食べ足りない。もつと、あれを食べなくては気が済まない。まだ、何処かにあるんぢやないのかい。 探して――みて。もう、あそこに――無いと、云ふのなら。本当に、無いわ。 それだけ聞くと、私は少女の躰を放した。艶つぽい声を上げて、少女はその場に崩れ落ちた。 竈の扉に駆け寄り、再び中に入つた。熱気が肺を満たした。あまりの熱気に しかし、こんな所で倒れる訳にはいかない。私は四つん這ひでずるずると進んでいつた。 竈の床は得も云はれぬ程に熱せられていて、私の四肢を じうじうじう、と厭な音が絶え間なく聞こへてくる。 探せども探せども、辺り一面には竈の床が広がつているだけであつた。四肢の一つでさへも見つけることは出来ない。 頭が あの肉をもう一度食べることなく――、私は死んでしまうのだらうか。 頭を何度も強打されるやうな感覚に襲われながら、次第に意識が薄れていつた。じうじう、と肉が焼かれる音が私の 諦めて目を閉じやうとしたとき、ああ、と呻くような声が聞こへた。 ※ 呻き声は、ああ、ではなく、うう、であつたかもしれない。しかし、今 必死に首を動かして、呻き声がした方を見やつた。ぶちぶちと筋繊維が千切れていく。何か、何か在るのか。 視線の先には、一つの首が在つた。 首は目を閉じてゐるが、口を僅かに動かして、確かにああと云つた。 ふふふ。 私は思わず笑つてしまつた。在つたのである。笑みが零れたのも無理もない。もう在るまいと思つてゐた肉がまだ在つたのである。 ずるずると焼け焦げた肉を躰から剥がしながら、私は首を掴んだ。 美しい、少女の首であつた。 ※ 竈から這ふやうにして出てきた私は、あなた、といふ少女の声に迎へられた。 ねえ、あなた。あなた、大丈夫――。少女は悲壮な声を上げながら、私を抱きかかへた。 ああ、無事だよ。うつすらと目を開けて少女を見た私は、驚愕のあまり目を見開いた。 目の前には、首から上がない少女がゐた。 ああ。 私はあまりのことに顔を覆つた。 ああ、まさか、私は、私は、お前の頭を食べてしまつたのかい。 私は非道く狼狽しながら問ふた。 ええ、そうよ。先刻まで悲壮な声とは打つて変わつて、少女は極めて平坦にさう云つた。 ああ、何と云ふ事だ。よりにもよつて、妻の――妻の頭を食べてしまふなんて。 何と償つたら。いや、償ふ事など出来ないとは判つている。それでも、何か――。 美味しかつたかしら。 ――え。 美味しかつたかしら、わたしの頭。 少女にもう一度問はれて、気圧されるやうに私は答へた。 ああ、美味し――かつたよ。 なら良いのよ。少女は歌うやうに云つた。 それに、あなたが食べたのはわたしの頭だけではないのよ。 ――え。 先ず、右腕。 そして、左腕。 次に、右脚。 はたまた、左脚。 少女が云ふ度に、それぞれの部位がぽとりぽとりと落ちて行つた。 最後に、胴体。 少女の支へを失つた私は、痛む躰に鞭打ちながら何とか自分で起き上がつた。辺りには少女の四肢が散乱してゐるだけであつた。 最早、私は何も云ふことが出来なかつた。 ただ其処にぼうつと座つている私に対して、少女は心底可笑しさうに嗤つた。 あなた。あなたは何も気にする事はないのよ。だつて、あなたわたしに云つてくれたぢやない。 な、何を――。 私は震えながら問ふた。厭だ。ただただ、厭だ。 忘れてしまつたの。わたしはとても嬉しかつたのに。云つてくれたでせう。この躰は私と君のものつて。 私は妖艶に嗤いながら云つた。 もうあなたはわたしのもの。 〈終〉 |