俺の親父は、阿呆である。
どれくらい阿呆かというと、「ふくりゅうえん」も気にせず、実の息子の前で煙草を吹かしたり。あるいは、家に堂々と水商売の女を連れ込んだりする。授業参観の時には、他の親たちが一張羅を着込んでる中に、よれたTシャツとジーパンでぶらぶら来たこともあった。あと運動会の時は、よりにもよって俺の弁当をホステスの女に作らせた。さらにテストがあると、見せもしないのにその答案用紙を勝手に見つけ出して「お前アホやな」とにやにや笑ってくるし、俺のおやつを平気な顔して取り上げては自分で食ったりもする。
とにかく、そんな感じで阿呆なのが、俺の親父である。
「いらっしゃーい」
「おう」
そして俺と阿呆親父は今日も今日とて、お好み焼き屋『しみず』に来ていた。
休日のたびに来ている気がする『しみず』は、親父と中学生以来の友だちだという清水のおっちゃんがやっている。古い木造で、奥はそのままおっちゃんの家になっているような、小さな店だ。鉄板付きのテーブル席が二つと、あとはカウンター席しかないから、お客さんが八人も入ればいっぱいになると思う。といっても、俺はこの店がいっぱいになったとこなんて見たことがない。
「相変わらず、閑古鳥の寝息が聞こえそうな店やな」
「うっせ」
言ってはいけないことを堂々と言って、親父はいつも通り、カウンター席に座る。俺の席もいつもの通り、その隣だ。俺たち以外に、お客さんはいなかった。
するとおっちゃんは、俺たちが来るまで読んでいたらしい新聞を片付けて、目の前の鉄板で焼きそばを作り始める。……まだ何も注文してないんやけど。
「おい、しみやん。勝手に焼くなや」
「ええやんけ。焼きそばの麺が余っとんねん」
親父の当然といえば当然の抗議も、さらっと受け流される。いつもの会話だ。それぐらいこの店には入り浸っている。もはや常連というより、残り物処理係みたいやと思う。
ちなみにこの二人は、未だにお互いをあだ名で呼び合っている。『れーよん』と『しみやん』である。何かクリーニング屋みたいな名前やけど、本人たちは気にならないらしいから、俺から言うことは何もない。俺は、その程度には賢明な子どもである。
ちなみに『れーよん』いうのは、親父の下の名前が『怜一』やから。「ホンマは『いーやん』て呼んでてんけど、同じクラスに『井澤』って苗字の奴がもう一人おってん。だから『れーよん』やねん」と、おっちゃんが前に言っとったのを覚えてる。
そんな二人やから、わざわざ『しみず』に来なくても、おっちゃんもよく俺んちに遊びに来る。もちろん、お好み焼きのお土産つきで。この間なんかは運動会にも応援に来てくれたけど、親父と一緒に騒ぎすぎて先生に注意されとった。確かに嬉しかったけど、それ以上に恥ずかしかったので、実はもうあんまり来てほしくない。でも言うたら、意外と繊細なおっちゃんは確実に落ち込むので、俺はまだ本音を言えていない。
「おや、こんなところにお客様とはめずらしいわねぇ」
「おう、リリィか」
ガラッと店の戸が開いて、珍しくお客がもう一人やってきた。テーブル席にあった灰皿を勝手に取ってきてタバコを吹かしていた親父が、手を上げる。入ってきたのは、ホステスのリリィさんだった。
「なーんだぁ、怜ちゃんたちか」
「うっさい」
リリィさんも、清水のおっちゃんには聞かせてはいけないようなことを堂々と言って、俺の隣に座る。カウンター席は、左から親父、俺、リリィさんの順になった。
親父の友だちその二であるこの女の人は、親父よりも明らかに年上で、親父が家に連れ込んできたどの女よりも短いスカートを常にはいている。今日は蛍光ピンク色の、タイトスカートやった。……どこで買ったんやろ、そんなん。
そんなリリィさんは、近所のスナックとかいう種類のお店で、ホステスをしているらしい。ただ、俺はその店に行ったことがないので、具体的にどんなことをしている店なのかは、よくわからない。本人が言うには、そこのナンバーワン、なのだそうだ。ちなみに、運動会の時に俺の弁当を作ってくれたのは、リリィさんだった。
「……ああ、そういえばぁ、怜ちゃん。ルルとケンカしたでしょぉ。怒ってたわよー、あの子」
俺が出来た焼きそばを食べ始めるのとほぼ同時に、リリィさんが口を開く。それからやっぱりタバコに火をつけて、「しみちゃん、豚玉ぁ」とおっちゃんに注文した。
「あー、あったな。そんなことも」
灰皿でタバコをもみ消して、親父もずるずると焼きそばを食べる。リリィさんがとげとげしい顔をしているのに、気のなさそうな返事だった。
「ひどーい。覚えてないのぉ?」
「しゃあないやん。一週間ぐらい前の話やで、それ」
一週間前、と聞いて俺も思い出した。確かにそれぐらい前に、親父は家に連れ込んだ女とものすごいケンカをしていた。隣の部屋で宿題中やった俺には、何がなんだかさっぱり分からんかったけど、珍しく親父が怒鳴って女を家から追い出していた。リリィさんより、親父よりもうんと若い派手な女で、俺は挨拶ぐらいしか話していない。
「だからぁ、ルルはそれからメールにも全然、返信くれないって言って怒ってるのよぉ。なのに何よぉ、その興味ゼロな態度。……あー、もう。やっぱり怜ちゃんってそういう男よねぇ。だからルルにもあんな顔だけ男はやめとけって言ったのに。言わんこっちゃないわね」
最後のほうはほとんどグチになって、リリィさんが煙を吐き出す。それから、焼きそばを口いっぱいにほお張っていた俺に、今まで見たこともないような真剣な顔を向けた。
「お願いだから浩ちゃんは、こんなダメ男になっちゃだめよ」
……俺は、まだ口の中が麺でいっぱいやったけど、思いっきりうなづいておいた。それを見て親父がめっちゃ嫌そうな顔をしたけど、知ったこっちゃない。清水のおっちゃんは大爆笑してる。
息子の俺が言うのもなんやけど、俺の親父は、なんていうか、見た目だけはカッコいいほうやと、思う。イケメンっていうワケじゃないし、美形っていうのもなんか違う気がするけど、でも、全体的にキレイな感じがする。清水のおっちゃんは前に親父のことを「上品な顔」と言っていたから、そういうことなんやと思う。
いつもだらけた格好をしているわりに髪は真っ黒でツヤがあって、小ギレイな感じがするし、目はキツネっぽいつり目のクセにくっきりとした二重だ。鼻は女みたいに細くて高い。いかにも性格の冷たそうな雰囲気やと俺は思うんやけど、クールな外見、と言われれば確かにそうかなとも思う。まぁ、実際の親父の性格はズボラで阿呆で、クールとは程遠いけど。
おかげでこの間の授業参観の時なんか、俺はめっちゃ恥ずかしい思いをした。他の親たちがスーツとかビシっとした格好でいる中、親父一人だけがいつも通りのTシャツにジーパンで、俺はそれだけでも嫌やった。なのにそのあとクラスの女子から「井澤くんのお父さんてカッコええね」と言われて、俺はさらに恥をかかされたんや。
だから、というとちょっと嫌な気もするけど、でもきっと俺の母さんも、親父のこの外見にだまされたんやと思う。
俺の母さんはもう一年ぐらい前から、東京のほうにあるという実家に戻っている。要するに別居ってヤツや。どうせなら俺も連れてってくれたら良かったのに、と思うけど、母さんにも事情があるやろうから仕方がない。まぁ、未だに離婚はしてないみたいやし、月に一回くらいは電話もかかってくる。言うても、その電話にはほとんど親父が出て、すぐ切ってまうけど。
だから俺は母さんの顔はもちろん、声もここ数ヶ月は聞いていない。
「じゃあ、もう怜ちゃんはルルとは仲直りする気はないのね?」
もうすぐ次の電話がかかってくる頃かな、とか俺が思っていると、リリィさんがまだ親父に食い下がっていた。そういえば、リリィさん以外の女が家に来るようになったのって、母さんがおらんくなってからな気がする。
「ねぇよ」
さっさと焼きそばを食べ終わったらしい親父が、お冷を飲みながら不機嫌そうな顔をする。親父は、ええ年した大人のクセに気分屋だ。
「あ、そう。わかったわ。まぁ、ケンカの原因なんてヤボなことは聞かないしぃ。あと始末はあたしに任せといて」
リリィさんがあからさまなため息をもらす。
「でも怜ちゃん、いつまでもそんな生活続けちゃって、浩ちゃんがいなくなったらどうする気なのよぉ。嫌よぉ、『独居中年、孤独死』なんて」
「ええやんけ。俺は死ぬ時は、こう、ふらっと消えるみたいな猫みたいな死に方する予定やから。カッコええやろ。……おい、それよりしみやん、リリィの豚玉まだか?」
親父はお冷まできっちり飲み干して、今度は清水のおっちゃんに話しかけた。俺も焼きそばを食べ終えてしまったので、確かに遅すぎる。でも親父の場合は、リリィさんのことを思って、ということでは当然なく、多分、ちょっとつまみ食いさせてもらおうと思ってるだけなんやろう。
「そうよぉ、遅すぎぃ」
「……ま、待ってくれ」
リリィさんにも急かされて、おっちゃんは焦った声を出した。見ると、おっちゃんの顔はガッチガチに緊張していて、ヘラを持った両手はちょっと震えていた。
「今、今、美しくひっくり返すところなんや!」
鉄板の上では豚肉の乗ったお好み焼きの生地が、キレイな円形に整えられていた。焼けている面は良い音を立てていて、ひっくり返して片面も焼けば、おいしくできるんやろう。……ただ、ここで問題なのは、おっちゃんの技術である。おっちゃんは自分がお好み焼き屋のクセに、俺が上手いこと生地をひっくり返せただけで「お前は将来、天才職人になれるで!」と本気で言ってくる。要するに、それぐらい不器用だ。それでなんでお好み焼き屋やってんねん、とは思うんやけど、味は確かにおいしいし、常連として、俺はお好み焼き屋『しみず』の将来を本気で心配している。
「れーよん、リリィ、浩ちゃん、見てくれ!! これが俺が三年間の山篭り生活の中で、熊と秘伝ソースで格闘しながら紅しょうが仙人から伝授された技や! 名づけて『必殺・ヘラ返しスーパーデンジャラスビューティーホーウルトラDX』!! 略して!」
何か色々ツッコミたいこと言われた気がする!
しかしおっちゃんは俺に構うことなく、ヘラでお好み焼きの生地をすくい上げた。
「へっでゅぅぅうぅぅっ!」
なんやねん、へっでゅぅって!
おっちゃんは、どの辺が『必殺』なんかさっぱり分からんごく普通のヘラさばきで豚玉を返した。いや、返そうとして……見事に生地を空中分解させた。
「あーあ」
「うっわ、しみやん。相変わらずへったクソやな」
「最低ー。ちょっとぉ、それでお客から普通にお金取る気じゃないでしょうねぇ?」
おっちゃんが、その場に泣き崩れる。
……俺は、お好み焼き屋『しみず』の将来を本気で心配している。
「あ、お前、今日から全治三週間の予定な」
「は?」
めそめそする清水のおっちゃんをなだめすかして、アパートに帰ってきた途端、親父が包帯を取り出した。もちろん、俺はケガも病気もしていない。
しかし親父は戸惑う俺に構わず、俺の右手を包帯でぐるぐる巻いていく。
「あ、血もなくちゃな。そのほうが臨場感あるやろ」
血?
ワケの分からんことを言われて、頭には絵の具で赤いシミをつけた包帯が巻かれていく。それを眺めていると、ドンドンっと玄関の戸が叩かれた。
「来たな。お前はずっと黙っとけよ」
今やすっかり見た目だけ重傷者の俺に向かって釘を刺すと、親父は玄関の戸を開ける。いたのは、大家のおばちゃんだった。
「あ、どうも。ご苦労様です」
「井澤さん、今月の家賃。お願いしますよ」
普段からは想像もつかないそうな猫なで声を出す親父に、大家さんは無愛想に手を出した。ああ、言われてみれば、そんな時期やったな。
「……ああ、それがですね大家さん」
すると、親父が意味ありげにちらっとこちらを見る。そこで俺は、ようやく親父のせこい作戦に気がついた。
「実は、昨日、うちのバカ息子が階段で転んじゃいましてね。全治三週間なんですよー。見てやってください、この痛々しい感じ! すんません息子がバカすぎて! それで、その、治療費が結構かかっちゃいましてね。家賃全額ってのは、ちょっと……待っていただけたらなー。なんちて」
そこで親父は首を傾げてみせたが、全く全然かわいくなかった。大家さんも同じ意見だったらしく、ものすごい目つきで親父をにらんでいたが、特に何も言ってはこない。大家さんは月に何度か、家賃と回覧板のためにアパートに来るだけやから、本当に俺が昨日ケガしたか分からんかったんやろう。
結局、親父が俺の偽ケガを理由にごねにごねて、家賃の支払いをいくらかまけてもらっているようだった。俺は途中からアホらしくなって、やり取りをまともに聞いていない。
「井澤さん。残りはまた後日、絶対、もらいにきますからね。ちゃんと用意しといてくださいよ」
最後、大家さんはそうため息をついて去っていった。親父はずっと、気味の悪い猫なで声だ。そうして戸が閉まってしばらくしてから、ようやく元通りのズボラで阿呆な男に戻る。
「あー疲れた。おい、茶くれ、茶」
「自分で入れろや」
狭い安アパートに大の字で寝転がる親父に、俺は頭につけていた包帯を投げつけた。親父はそれを気にもせず、「次はインフルエンザでいくか」とつぶやいている。アホらしい。そんなこと考える前に、働けよ。
親父は、前はどっかの会社で働いていたみたいやけど、今は何やってるんかさっぱりわからない。今日みたいな休日ならともかく、平日に俺が学校から帰ってきても家でだらだらしてることが多いから、多分、普通の会社では働いてないんちゃうかと思う。まさか、リストラされたんやろか。
「……なんや、不満そうやな」
案外、がっちり巻かれている右腕の包帯をほどいている俺に、親父が笑った。不機嫌さを隠せなくて、俺は顔をそむける。また笑われて、もっと嫌になる。
「まぁ、安心せぇや。どうせもうすぐ『期限切れ』やし」
期限切れ? 何やそれ。
不思議に思って親父の顔を見た時、またドンドンと戸が叩かれた。また大家さんか? 親父も慌てて飛び起きて、「アホ、隠れとけ」と俺にささやく。それからそっと玄関まで歩いていって、恐る恐る戸を開ける。情けない。俺は、親父に呆れながらも隣の部屋に隠れ、ふすま越しにこっそりと様子をうかがった。うちに家賃を全額払える金がなさそうなことは、さすがに分かるし。
しかしそこに、大家さんはいなかった。
「怜一、久しぶり」
そこにいたのは、長い髪がキレイな、大家さんより若い女の人だった。もちろん、リリィさんでもなければ、親父とケンカしたルルでもない。俺が、一年ぶりに見る顔やった。つまり。
「母さん」
驚いて、思わずふすまを開ける。そこにいたのは、間違いなく俺の母さんやった。髪が長くなって、ちょっとこわばった顔してるけど、間違いない。
「なんや、お前か。大家かと思て、めっちゃ緊張したやんけ」
母さんも俺も固まって動かない中、親父だけがほっと肩の力を抜いてしゃべりだした。母さんに家に入るように言って、自分も玄関口から戻ってちゃぶ台を広げ出す。そして戸棚から一枚の紙を取り出すと、親父はとんでもないことを言った。
「よし、離婚しよか」
「あなたが望むのは何なの?」
母さんが実に冷めた表情で、離婚届に何か書き込んでいる。多分、自分の名前なんかな、とか俺はぼんやり考えた。
「何も。あえて言うなら、こいつさっさと連れてけ」
親父は面倒くさそうにあぐらをかいて、俺に向かってあごをしゃくった。そして母さんの様子を眺めながら、またタバコを吹かす。
「お前はなんかあるんか? 慰謝料とか?」
「……浩一を引き取らせてください。それが『約束』でしょ?」
関東生まれの母さんは、俺や親父みたいななまりのない、キレイなしゃべり方をする。俺はその話し方がずっと好きやったけど、今は、すごく冷たい雰囲気がして怖かった。
「おう、好きにしろや」
親父も、冷たい声やった。
そうか、この二人離婚するんか、と俺はようやく、目の前で何が起こってるかがわかってきた。まぁ、一年も別々に暮らしとったんやし、おかしいことじゃないよな。でも、何が原因なんやろ。親父がアホやから? 確かにどうしようもない阿呆やもんな。それは間違いない。さすがに俺もフォローできん。いや、てかそもそも、なんでこの二人、こんな堂々と離婚しようとしてんねやろ。離婚する時ってこういうもんなん? 一応、一人息子が目の前におるんですけど。まぁ、俺も別に、目の前で何が起こってるか分からへんとか、両親の事情が分からへんとか、そういう年でもないし。うん、だからええねん。ええんやけど。なんやろコレ。何かおかしくない?
「本当に、これでいいのね?」
母さんが、親父を見つめていた。その顔は、家に来た時みたいにすごく緊張している。
「何やねん、今さら」
「だって、全然、理由話してくれないじゃない。何がダメなの? どうしてダメなの? 電話でもまともな会話にならないし。訳ぐらい話しなさいよ。貴方がどうしようもない馬鹿だってぐらい分かってるけど、前はこんなんじゃなかったでしょ!」
バンっと母さんがちゃぶ台を叩いて、正直、俺はめちゃくちゃ怖かった。何やねんこの空気。いや、何やねんはないか。でもこの空気、怖すぎやろ。俺、どうしたらいいんや。
「それこそ今さらやな、ホンマに」
親父は母さんの怒りを完全に無視して、冷蔵庫から缶チューハイを出す。酒を口に入れてこっちを見下ろす様子は、どう見てもバカにしているようにしか見えなかった。
「ちゃんと答えてよ!」
「うっさいな。あー、もう、ええわ。言うわ。女できてん。ルルっていうホステスや。だからお前と離婚したいし、ガキがいらんねん」
ウソや。
俺はすぐにわかった。だって、ルルって一週間前にめっちゃケンカしてた女のことやん。リリィさんにも、仲直りももうしないって言ってたやん。何でそんなウソつくねん。
「……本当なの?」
「嘘ついてどないすんねん、こんなこと」
「ウソや!」
気がつくと、俺は叫んでいた。別に、親父がウソついたことに腹が立ったわけじゃない。でも何かもやもやして気持ち悪くて、思わず声が出ていた。とにかく、親父はやっぱり阿呆やと思った。
二人が突然、大声を出した俺にびっくりしたみたいやった。俺は構わず、腹立つ阿呆親父に駆け寄る。そしてそのバカにしくさった缶チューハイを、ひったくってやった。
「おい、何すんねん」
「何すんねんちゃうわボケ! ウソばっかつきくさりやがって! アホか!! だいたい、人と会話してる時に自分だけ酒飲むなや!」
本当に、よう分からんけど、親父のウソは別にええねん。でも、それとは違う別の理由で、俺は親父に腹が立って仕方がなかった。何してんねん。ホンマに俺のほうが聞きたいわ。
でも俺はとにかくムカついてムカついて、今度は親父が飲んでた缶チューハイまで嫌になってきた。こんなもん、なくなったったらええねん。そうや、こんなもん、なくしたったらええんや。なくなってまえ! 俺は、持ってたチューハイにぐっと口をつける。
「浩一!?」
母さんの悲鳴が聞こえたが、俺は気にせえへんかった。初めて飲んだ酒は、苦くてまずくて、親父は何でこんなもん飲んでんねんって思ったけど、俺は一気に飲み干した。飲んで、飲み干して。飲み、……あれ?
「浩一!」
母さんの悲鳴が、もっと高くなった。気が、する。するけど、何か天井がぐるぐるしてて、ぐらぐらしてて、ほんで。ほんで。ほん。本?
「この野郎、全部飲みやがった……」
何か、親父がそんなようなことを言ってた気がするけど、俺はよく覚えてない。
結局、子供一人が叫ぼうがわめこうが飲酒デビューしようが、大人の事情、なんてものが変わるわけもなく。俺の両親は離婚した。
俺は、今度は母さんと一緒に暮らすことになった。俺は知らんかってんけど、親父は一年前に母さんを追い出す時、「離婚したら子供はお前が育てたらええ。けど、別居中は俺のそばに置かせろ」という条件をつきつけたらしい。しかも別居期間は最長一年。それ以上長引きそうなら、何が何でも離婚する、と言うたらしい。ほんまに勝手な男や。
母さんの実家は関東で、当然、俺は転校するハメになったけど、それには不満はなかった。清水のおっちゃんたちや学校の友だちと離れるのは確かに寂しかったけど、それ以上に親父に腹が立ってたし、こっちの祖父ちゃんや祖母ちゃんはめっちゃ優しかったからだ。正直に告白すると、その優しさに俺はちょっと泣きそうになった。自分でもなんで泣きそうになったのかよく分からんかったけど、多分、それだけ親父に腹が立ってたんやろう。
学校は、変な時期に来た転校生の俺は、最初は相当浮いた。俺のしゃべり方も、やっぱり周りには違和感があったらしい。でも、もう直せんくらい染みついたもんはしゃあないし、俺は気にせんようにした。そうしたら、周りも気にせんくなってた。まぁ、そんなもんやろう。
何や結構、楽しいやん。学校にも、家にも、母さんたちとの生活にも、そう思って。そう思ったことも忘れかけるくらいになった頃、俺は新幹線に乗り込んで、再び親父の元に向かっていた。隣には母さんもいる。
座席に座っても、二人とも無言だった。ちらりと覗き込んだ母さんの横顔は、青ざめて緊張していることがはっきりと分かる。俺は、ぼんやりと新幹線の天井を眺めた。朝早くにたたき起こされて、すごく眠かったってのもある。そのせいかいつの間にか寝ていて、俺は変な夢を見た。
夢の中では、なぜか親父が黒い猫になっていて、母さんとすごいケンカをしていた。「この馬鹿男!」て母さんが言って、親父が猫やというのにめっちゃキレイな人間語で「お前もたいがいアホやんけ」と言っている。俺はそれを横で見ながら、ミートスパゲッティを食べていた。母さんの実家は洋食屋をやっているので、多分、祖父ちゃんがいつも作ってくれてるヤツやと思う。そんで俺は、要するにどっちも阿呆なんやなって思うんやけど、思っただけで声には出してないはずやのに、二人から「浩一!!」てめっちゃ怒鳴られた。それからひたすら二人に叱られて、何でこんなに怒られなあかんねんって思って。
思ったところで、目が覚めた。
「浩一、着いたわよ」
まぶたを開けると、そこにあったのは母さんの青ざめた顔だった。夢の中と違って、落ち込んだ暗い声だった。
俺は素直に従って、母さんと一緒に駅に降りる。口数が気持ち悪いほど少なくて、俺はこっちのほうが夢なんちゃうやろかってかなり本気で思った。だって、夢の中の母さんたちは、確かにケンカしてたけど、ちょっと楽しそうにも見えた。思えば、母さんと親父は、俺がうんと小さい頃からよくケンカしてた気がする。何かあればすぐに、馬鹿とかアホとか言い合ってたと思う。でも殴り合いになるようなことはまずなくて、ケンカの後はいつも笑ってた。俺はよくゲンコツくらってたけど。
それが、別居するちょっと前ぐらいから、おかしくなった。おかしくなったのは親父のほうやったと思う。家に帰ってくるのが遅くなって、帰ってきても酒臭いことが多くなった。無口にもなった。それから、怖かったけどちょっと面白かった二人のケンカが、本気で恐ろしくなってきて。俺はそれが嫌で、その頃は学校が終わっても図書室とかで時間をつぶしていた。でも母さんに心配かけたくなかったから、結局はちゃんと家帰ってたけど。
そしてある日、夜に母さんと親父はビックリするぐらいの大ゲンカをして。翌日、俺が学校から帰った時には母さんはおらんくなってた。それから、俺は親父と二人で一年間、生活をしていたのだ。
思えば、あの時から親父は全部、知ってたんやと思う。
改札を出て階段を下りると、そこにリリィさんが立っていた。リリィさんは母さんとも顔見知りやから、迎えに来てくれたんやろう。
リリィさんは今日もスカートやった。でも短くも派手でもなくて、膝丈の、すごく地味な格好だった。
「二人とも、久しぶり。お通夜は夕方からやから、とりあえず怜ちゃんのアパート行こ。しみちゃんが遺品の整理してくれてる」
あ、そうか。リリィさん、喪服着てるんか。
俺がそう考えついてる間に、リリィさんはタクシーを止めていた。母さんはずっと無言だった。
親父が死んだのだ。
棺桶の中に納まった親父の顔は、はっきり言ってすごくマヌケだった。
死んだ人間の姿ってのは、見たらもっと涙が出てくるもんかと思ってたけど、全然違った。寝顔にしては確かに青白いけど、ふやけてて緩んでて、カッコ悪かった。全然「上品な顔」ではなかった。
もうずい分と前から、余命は告知されていたらしい、とリリィさんが教えてくれた。俺はそんなことは全く知らなかった。母さんも知らなかった。リリィさんや清水のおっちゃんも、病気が進行して、もう親父一人じゃどうしようもなくなってから、よくやく教えられたらしい。しかも、俺たちには教えるなって、親父は口止めしたんやそうだ。これは、清水のおっちゃんから聞いた。なんちゅうガンコな男やと、俺はそれを聞いて呆れた。
そのおっちゃんは、親父の遺品を片付けてる最中も、お通夜の最中も、ずっと子どもみたいにわんわん泣いていた。坊さんが読経が聞こえんくらい、大声で泣いていた。
俺はというとそれを見て、ようそんなに泣けるなぁ、とか、そんなことを考えていた。でもお通夜の時は、リリィさんも泣くのをこらえるみたいに何度も目元をハンカチでぬぐってたし、母さんは泣いてはいなかったけど、糸が切れた人形みたいに呆然としているみたいだった。つまりは俺のほうが変なんか、と分かったけど、でも泣けんもんは仕方がない。俺は坊さんの読経、はよ終わらんかなとか、よく聞くとお経っておもろいなとか、そんな不謹慎なことを考えて時間を過ごした。
お通夜が終わる頃になって、母さんが現実に戻ってきたみたいに突然、泣き出した。俺もリリィさんも、清水のおっちゃんもこれにはびっくりして、三人で必死になだめたけど無理だった。結局、リリィさんが母さんを連れて出て行った。俺はおっちゃんと、お通夜に使った会場の隣にある、控え室みたいなとこで母さんたちの帰りを待った。
「浩ちゃん、これでも食べ」
おっちゃんは俺が落ち込んでるもんやと思って、お寿司をすすめてくれた。けど、俺は腹が減ってなかったから、素直に断った。むしろ、おっちゃんのほうが、何か食べたほうが良さそうな顔をしていた。さすがにもう泣いてはいなかったけど、目元は真っ赤にはれ上がっていたし、顔全体も少しやつれてるようだった。
こんなに嘆き悲しんでくれるなんて、おっちゃんは親友思いなええヤツやな、と俺は思った。リリィさんも母さんも、おっちゃんほど大げさじゃなくても、多分、おんなじなんやろう。でもそうすると、俺はめっちゃ薄情な息子やなってことに気がついて、おっちゃんのそばにおるのはちょっと居心地が悪かった。
だから俺は周りの目を盗んで、こっそり外に出た。外はさすがにもう真っ暗で、夜風が冷たい。それでも中に戻るよりはマシかと思い、俺は、ずっとズボンのポケットに隠していたものを取り出す。
それは、タバコとライターだった。親父の遺品の中にあった物だ。あの阿呆親父は、死ぬ直前までタバコを止めなかったらしい。全く阿呆や。あまりに阿呆らしすぎて、俺は色々、余計なことまで思い出してしまった。
例えば、運動会の時。あの阿呆はよりによってホステスであるリリィさんに、俺の弁当を作らせたけど、でも、その中でおにぎりだけは妙に歪んでて下手くそやったな、とか。あとは授業参観の時。俺はその日に授業参観があるなんて、一言も言わんかったし学校からのプリントも見せんかったのに、なぜかあの親父は学校にやってきて、俺はびっくりさせられたな、とか。テストの点数は、ひとしきり馬鹿にされたけど、最後はいつも髪の毛くしゃくしゃになるまで撫でられたな、とか。
それから、そうや、ルルや。ルルとかいう若い女とすごいケンカをした時。ルルは俺が挨拶した時、俺の前で親父に「こんなガキ捨ててきたらええのに」て言ったんやった。俺は全然気にしてへんかったのに、しばらくしてから聞いたこともないような親父の怒鳴り声がして、ルルが追い出されたんやった。
なんで今頃になってこんなこと思い出してるんやろ、俺。
『俺は死ぬ時は、こう、ふらっと消えるみたいな猫みたいな死に方する予定やから。カッコええやろ』
ついでに、さらにいらんことも思い出してしまった。もういつか覚えてないけど、親父が前に言ってた言葉だ。
腹立つ、と俺は思った。何が猫やねん。阿呆やろ。結局、周りに迷惑かけまくりやんけ。母さん追い出して。清水のおっちゃんたちにも何も言わんで。働かずにだらけた生活してるフリして、病院行っとったんやろ。阿呆ちゃうか。
あまりに阿呆らしすぎて腹が立って、俺は親父のタバコを試しに吸ってみた。母さんと離婚する時に飲酒デビューしてみたみたいに、今度は喫煙デビューや。
「さっさと死にくさりやがって。阿呆親父」
吸ってみたタバコは、案の定、苦くて煙くて、何がいいんかさっぱり分からんかった。あんまりにも苦くて苦くて仕方がなかったから、俺はちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、泣いた。