紙海書庫 ぴぃしぃず
§『anima mundiの海』//第一枝
隙間ばかりが目立つ本棚から、また一冊の本が重力に惹かれて飛び降りる
地面に背をぶつけ、装丁を痛めながら『果実の書』は影の前に世界をぶちまけた
露悪的な二枚貝から、くすんだ詩篇がばら撒かれる
影は何を思うでもなく、砕けた詩片を手に取って嵌め直し始めた
§『果実の書』//第五篇
「ゆえに、私はあの時から既に、人では無くなっていたのだよ……」
棘に塗れたヤドリギの枝で、水底に縫い止められながら彼は笑った
その呟きを聞くのは、花土竜と三つ足の鴉、そしてついさっき滲み出した影を合わせた三人
右腕が欠けた花土竜は、残った左腕でヤドリギを引き抜いた
投げ捨てたヤドリギに群がるのは、根齧りの蛇と盲目の蠅共
太陽の鴉は悲しみに染まった慟哭を掻き鳴らす
影は引き返す
このままじゃ救われない
頁を逆さまに進める、くすんだ詩片は影に染まりて輝く
§『鉄葎の書』//第三篇//改訂後
腐り落ちた花土竜の右腕が、ゲラゲラと哄笑を発しながら影へ手を伸ばす
影は危うく身を引きつつ、紙魚の呼び餌を振り撒いた
右腕はなおも追い縋るが、その行く手を巨大な怪魚が飛沫を飛ばしながら阻む
虚数の紙海より身を躍らせたのは隻眼の知翁の走魚
呻き声すら漏らさずに耐える花土竜を庇いつつ、影は宿り木の根元より立ち去る
ビチビチと音を立てて食い散らかす紙魚、それでも奇声は止む事が無い
紙面にズブズブと沈み込みながら右腕は、指先の口を開いた
「ヒャハハ、ヤメタヤーメタ、トりあエず寝ルとすルゼ」
今回はな、と耳に嫌でも残る雑音を残して右腕は消えた
八咫の先導を受け、影は世界の外へと逃れる
手折ったヤドリギを握りしめて
§『anima mundiの海』//第二枝
まず、結末を変えるには序章に手を加える必要がある
前提条件を変えれば解もまた姿を変える
八咫鴉は三つ足を以って、彼の男の節を探し出す
其は渡海の渡し守であり、光明の遣いなり
影は再び、崩壊しかかった古書へ身を投げ出した
§『果実の書』//第一篇
「おや、ぼうや、よく来たね。ここまで来てくれたぼうやに欲しいものをあげよう。なにが欲しい?」
三対の翅を持ち、豪奢な礼装を着た死の国の女王が甘く囁いた
彼女の前に跪き、頭を垂れるはハシバミの瞳を持つ少年
原初の罪を背負った少年は、ただ贖罪の為に久遠の果実を求める
「そうかい、ぼうやも酔狂だねぇ。苦しむ為に生き永らえるなんて」
女王は自身の経血を混ぜた蜂蜜酒を少年へ手渡す
「苦くても薬は必ず飲むんだ、その苦味は肉体を溶かすからねぇ、そんな古いもの捨ててしまえばいいのさ」
それは、賢者の石とも蓬莱薬とも呼ばれる、輪廻の鎖切り
「なぜ、蜂蜜酒に混ぜたか分かるかい?」
「ぐっ……、それは私が、こどもだから……ですか?」
肉体どころか精神ごと、内側から焼かれる苦痛に咽びながら少年は答える
「ククッ……黄金の林檎酒程度まで濃かったら、今頃ぼうやは円環蛇になっていたからさ」
人の悪い笑いを残して女王は去っていった
生まれ変わる程の痛みに叫び続ける少年をそのままにして
§『果実の書』//幕間
「それで? そこの連中はいつまで観客のままなんだい?」
女王が見えざる玉座へ戻り、悠然と行間へ問いかけた
印字が滲む様なうねりを見せ、装丁外から影が現れる
妖艶な笑みを見せながら、女王は影に話しかける
「なるほど、大方、さっきの儀式を無かったものにしにきたってとこかい?」
そのまま影の目論見を視線に晒した
伏せられた線が無ければ、結末は糸が切れた人形と化す
因果そのものがないという矛盾、それは記された物語さえも変える
「……私には無理だね」
色めき立つ影、心なしかそれに伴って周りの風景も歪み始める
「この私はもう記されてしまってるからねぇ、書き直すなら自分でするんだよ」
クツクツと皮肉気に笑う女王、影が現れた事で既に彼女を記す文も消え始めた
身体が塵と化し、消えていく中で女王は呪いの言葉を残す
「クッ……しかしだねぇ、改訂するという事は今の私が殺されるという事だ、だから言っておくさ……この私はお前が大嫌いだ!!」
そうして、何もかもが白に塗り潰されていった
残されたのは、染みのように佇む影のみだった
§『anima mundiの海』//第三枝
ようやく、彼の魂の牢獄へ至る芽は刈り取った
しかし、まだ彼の死が消えたわけではない
直接の原因となるものを取り除かなくてはならない
装丁の半身が黒く染まり輝く『果実の書』
地面に散らばった詩片は残り少なく、いまや影の手元にある数個を残すのみ
影は一度振り返り、振り払うように『鉄葎の書』へ向かう
落丁が始まっている本の一つ、中では花土竜が命を賭して絶望の箱を塞いでいる
助けにいかなくては
影はゆっくりとその身を紙面へ埋めた
§『鉄葎の書』//第四篇//改訂後
花土竜は右腕が欠けてなお、衰えを見せなかった
むしろ一層命の輝きを増しているように見える
それもそうであろう、花土竜の右腕はまさしく寄生木
植えつけられた餓骨の破片であり、蛆の卵だったのだ
しかし、八咫の血や影の改訂を使っても再生される事はない
不穏な予感は翌朝、崩壊が進んだ黒い太陽の光を浴びた際に当たる
失われた右腕の傷口が、ボコボコと湧き上がり、そこから泥人形の如き汚濁が零れ落ちた
「ヒィーハァ! ドウだい? オレサマの文渡りモ大したもノだろゥ?」
右腕は舐め回すように影達を視線で犯す
「コの壊れタ世界さえオレサマには関係ナいんダよ! お前ラが装丁を緩めタおカゲでナ、セいゼいオレサマの為ニ頑張ンナ!」
どうやら逆に紙魚を取り込んだのか、どす黒く濁った鱗と骨、そして寄生木の根を捏ね上げた異形
花土竜が激情に任せて淡緑色の葉を振るうが、右腕は歯牙にもかけない
それどころか、既に無いはずの右腕が幻痛で痛み出す
「ヒヒヒ、ざーンねンだガ、今ハお前ラに構ってル暇ないンだヨ! さッサと紙ノ子を殺さナイとナァ!」
狂気に染まった哄笑を上げ、ズブリズブリと染み込む様に地面へ消えていく右腕
「イイねぇ、神様ト仲良くナッた子かァ。……会イたいネェ、早くサァ……クキャキャキャキャ!」
劈く様な嫌な笑いがいつまでもこびりついていた
しかし、自身を記述の外と考える右腕はまだ知らない
自身の暴虐が二度目だという事に
そして、既に最悪の結末へ至る伏線は取り除かれている事に
§『果実の書』//第四篇//改訂後
「ガッ……ハッ!? ナんでダ? ナんでコイツは不死じャ無クなっテイる!!?」
ヤドリギを胸に生やしたまま、右腕は驚き戦慄いていた
自身の身体が既に崩壊し始めている事にさえ気付いていない
万物に無害を誓われた光神すらも貫く、不死なるモノに絶大な効力を持つヤドリギ
しかして、不死でなくなった彼にとっては単なる樹枝に過ぎない
驚愕に打ち震えているところに、右腕はその身を貫かれる
本渡りを行った影達が持つヤドリギから滴り落ちる汚泥
ミストルティンの一撃はその伝承に違う事なく右腕を死滅させる
花土竜から離れ、不死性を獲得したのが仇となったのだ
骨は塵に、泥は土塊に、根は樹屑に
完全に塵芥と化し、散っていく右腕
そこには、最後まで自身の状況に気付けないまま狂ったような叫び声だけが残された
§『果実の書』//第五篇//改訂後
彼は影達の迅速な治療によってすぐに癒された
人の子とて樹枝で貫かれた程度では死にはしない
影達だけが知っている、一度目に死んだ時と比べて彼は随分と老いていた
不死ではなくなった為であろう
しかし、それでも彼が生き延びた事には変わりはない
そう、物語は改変され、記述された文章は再構築された
「……くっ……あ……私は一体……? 生きて……いるのか?」
微かな呻き声を上げて彼は目を覚ました
影達は喜びの様子を見せる
対して、鏡に映るが如く、どこか罪深さに耐えるような表情
「……あぁ、もしかしてキミ達は運命を変えてしまったのかね……? なんと罪深き事だ、主の御意向に背くなんて……」
翳りを浮かべたまま、彼は項垂れた
贖罪の為に生きるがゆえに、罪を重ねてしまったと嘆く
それでも、影達は願っていた
久遠の時を経ても贖罪は終わらない、ならばいっそその苦しみから解放してあげたかった
しかし、たとえヤドリギで殺されたとしても、一度輪廻から外れた魂は牢獄に閉じ込められる
その後に待つは、永久に続く魂を保ったままの転生地獄
贖罪で罪を晴らしたとしても、また罪を被りて同じ苦しみに耐えなくてはならない
そんな無間の苦痛から彼を救いたかった
ただ願っていた
「それでも、ボクたちと一緒に生きていて……」
§『anima mundiの海』//第四枝
その後、彼は再び弟子を連れて奇跡を起こす
しかして、最後には弟子によって裏切られて果てる
そればかりは、影達にも変える事の出来ない、『この場所』より外の記述
それでも影達は、意識の図書館にて散らばる世界を繕う
たとえ、それが自らの意思なのか、記されているからなのか分からずとも